4 放課後等デイサービスについて


3:作業所について
https://note.mu/welfare/n/nc72723da69b1

以前は学童で勤めていたが、そこは健常児がほとんどだった。

放課後等デイサービスとは
障害児を専門的に扱う学童と考えると分かりやすいだろう。

障害児について考えたとき、
「児童」に加えて「障害」の要素が加わることが、
どういうことかを考えてみる。

「児童」であれば
一般的な教育やしつけの中で自然と成長していくことが想定される。

しかし、「障害児」となると、話は単純ではなくなる。

「児童」として自然に成長発達する部分と、
「障害」としてその伸びしろが阻害される部分が凹凸的に存在する時、
児童特有の「未熟さ」と固有の「障害」の見極めが困難となるからだ。

そのため、「障害児」の持っている「伸びしろ」を確かにするための
「訓練」が主流になることが多い。

体幹の感覚、協調の運動、そうしたものを身につけていく。
こうした訓練には「強制」の意味合いを感じやすくなってしまう。

しかし、成長することは大人が子どもに願ってやまないことであるから、
訓練が悪という話をしたいのではない。

子どもが自発的に取り組めるなら、それに越したことはない。
どうすれば子どもは能動的に物事に取り組めるのだろう。

「遊び」というものを考えたとき、そこには「楽しさ」がある。

「楽しい」ということは、遊びの前提である。
その楽しさには、自分で決めるという「主体性」がある。
自発的な興味関心意欲に基づいて外に働きかけ、
内側の動きを豊かに感じる交互作用のプロセスが
「遊び」に凝縮されている。

ならば支援者から促されて受動的に遊ぶ姿は、
その意味において遊びではなくなってしまっている。
遊ばされているだけだ。

「好きこそものの上手なれ」とは真実をついている。
主体性はさらなる動きを導くし、
動きの呼び水の連鎖は成長の肝と言っても過言ではない。

子どもに対する支援においては、
利用者が「ハマるもの」を支援者が探すことが鍵となる。

何が楽しいのか、何が好きなのか。
その試行錯誤の過程を惜しみなく踏んでいく様は、支援というもの、
人と人との関係がいかに豊かなやり取りの中で行われているものかを
様々と見せてくれる。

その瞬間にこの仕事のやりがい、
醍醐味が凝縮されていると私は感じている。

主体性が他者との関わりで展開されていくとき、
物事は複雑になる。お互いの主張がぶつかる。

意見が食い違う。そこには葛藤や誤解、感情的な軋轢が起こる。

建設的に物事を進めるためには理性を伴う働きかけが必須になる。
交渉する、譲渡する。我慢する。

それらができずに喧嘩したとしても、支援者に寄り添ってもらったり、
なだめてもらったりもする。どうすればよかったのかを一緒に考える。

遊びには心の豊かな動きを通して社会性への適応も含まれている。

心の発達が知能の発達を支える。その逆もある。
身体の動きが心の発達を促すこともある。
体を使う外側と感覚的な内側が交互に関わり合っている。
訓練がそうだ。これらの要素はどちらも大事で成長発達の両輪だ。

「子ども」に目がいきがちだが、その子どもは「家」から来ている。

つまり、子どもの背景には「親」がいるのだ。
子どもの関わりが難しいと支援者が感じるとき、
それは親もまた感じて、悩んでいるかもしれない、
という可能性を頭の片隅に常に持っておきたい。

子どもにとって家は、養育の一番の土台だ。

それは前述した発達心理の発達段階で話した通りだが、
その親が何か問題を抱えていると、それらは子どもにも反映されてしまう。

問題は親にあるという話をしたいのではない。

親がこうして育てている(育ててきた)
という過程には大変な苦労があったはずだ。
これは子どもへの支援を通した、親を支えるという家庭支援なのだ。

 子どもの成長と発達への障害について考えたとき、
「障害」への理解だけでは捉えきれていない領域があるように思う。
障害を定義的に知ったところで、それは本質的な理解と言えるのだろうか。

本当に成長を考えるのであれば、「障害」の理解に加えて、
「脳」への理解が必要になってくるのではないか。

社会福祉士の資格には多くの科目を学ばなければいけないが、
その中の医学には「脳とはどのような働きを持っているのか」
についての項目がある。そのときは知識としてしか見ていなかったが、
実践を通じていくうちに、
ふとひらめきのように「障害と脳というのは関係があるのではないか」
と思うようになった。

心理学の学びもまた、そのひらめきの呼び水になったのだと思う。
「心理」と「障害」の関係には、「医学」の視点が抜けていた。

もう少し体系的な言い方にするのであれば「脳」と「体」の関係、
さらに五感と情報処理、学習のシステムを理解しておく必要がある、
ということになる。

また、
障害による感覚の育ちが阻害されることによる
心理発達の緩慢さも見過ごせない。
脳と心と体の関係性から捉えなければ全体は見えないのではないか。

「自閉症」とは何か、「注意欠陥多動性障害」とは何か、
という定義の話の中に「障害とは何か」の本質は含まれていない。
知的障害とは実はとても難しい領域を扱っているのではないか。
人間として備わる機能への障害として捉えると、
より違った見え方ができそうだ。

たとえば、
肝臓が悪い、目が悪い、などというと身体障害のように見えるが、
同様に脳に傷や萎縮があるとしても、
いずれも表面的には見ては分からないが、これは知的障害と言うのだろう。

肉体とは別の領域に分けるために、
便宜上、脳の障害を知的障害と定める、ということなら納得ができるのだ。

知的障害とは、脳という身体の機能の障害であり、
精神異常者では決してないのだから、これは広い意味では身体の障害だ。

さらに言えば、精神障害の原因となる、神経伝達物質でさえも、
脳の内側の神経回路の話なのだから、
これもまた身体の障害といえるのだとしたら、
すべては身体障害で、
その現れ方が機能的に区別されるにすぎないという見方では、
いけないのかと思うのだ。

また、
発達障害を発達に凹凸があるという意味で
不定形発達という言葉を使ったりする。

障害に目を向けるのではなく、今ある発達の状態に目を向ける。
ただの言葉の違いでしかないが、
言葉によるイメージの違いが人に与える影響は決して小さくはないはずだ。

「障害」という言葉の壁、差別を生む構造について考えたとき、
こう考えることでもしも偏見や誤解、先入観がなくなっていくとしたら、
その先には新しい視点や可能性が拓かれていくのではないか。

私は、最近そう思うようになっている。

5:三事業所を通して
https://note.mu/welfare/n/n28552291792f


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