2 知的に障害があることを踏まえて



1 再始動:学生時代の問題意識を抱えてhttps://note.mu/welfare/n/n4d90d9bc54ad


障害を知るということはどういうことなのだろう。

何度も伝えたことを忘れてしまう利用者に対して、
私は「これが一体いつまで続くのか」
と途方に暮れるような気持ちになることもあった。

その過程で「障害とは何であるのか」
というのを地道に考えて試行錯誤をしてきた。

障害者を否定的に見ていたのは
ただ私が知らなかっただけだったということが、
彼らの話を聞いて分かってきた。

彼らは人から理解をされにくく、生きにくいだけなのではないか、
と思うようになった。

その原因にあるのが障害だと理解はできたが、
障害を理解することは本を読んだとしてもとても難しいものがあった。

1章であったような、
子どもへの分からなさは教科書には書かれていなかったように、
そこには「定義」しか書かれていなかったのだ。

ここから障害についての学問的な定義について簡単に触れたい。

「社会生活」や「日常生活」において何らかの困難を「障害」と呼ぶとき、障害とは「個人」の原因と「環境」の原因があると考えることができる。

たとえば「注意欠陥多動性障害」にとっての「障害」は
個人の原因だと「不注意」や「多動」「衝動性」ということになるが、
環境の原因だと「周りの騒音」や「周囲にいる人」ということにもなる。
自閉症スペクトラムにしてもそうだ。
「周囲の人とのコミュニケーションの取れなさ」は「障害」になるし、
「環境の変化」もまた「障害」となる。

本人の有する障害の種類、程度によって、「障害」の度合いが異なるし、
さきほどの話を踏まえると
他者がその人をどれだけ理解しているかどうかよっても、
「障害」というものは変わってきそうだ。

「障害」という言葉を「生きにくさ」と言い換えると、
分かりやすいかもしれない。

ということは、
十人の障害者がいればその「障害」の現れ方は十通りあることになる。

そう考えると、
十人の子どもがいれば支援も十通りあるという
学童の支援にも通じる部分を見出すことができる。

分野は違えど支援の考え方には共通したものがあるのだろう。

学童で培った感覚を頼りに実践をする日々だったが、
子どもと関わるときのように、心を込めて感情を入れて叱る、
ということをしたが、彼らにはまるで響かなかった。

衣類などのこだわりを持っている利用者を見たときに、
「こだわり」が障害なのか、と考えると、そうかもしれないけれど、
こだわりがあるから駄目ということにはならない。

何かを教えるとして、それが「分からない」、からといって、
どのように言えば分かってもらえるのかを考えなくてはいけない。

しかし、「分かった」と言ってくれても同じことを繰り返したりすると、
本人でさえも分かっていないかもしれない
「何が難しいのか」
ということと丁寧に根気強く向き合っていく必要がある。

グループホームは、一人で現場に入る仕事だったから、
いつも「これでいいのだろうか」と不安を感じていた。

心細さもあったと思う。自信をなくすこともあった。
それでも、今ならできると思ったからこの業界を選んだわけだし、
もうできないことで自分に失望するのは嫌だった。
努力が続けられたのは、
それが自分の中で約束したものだったからかもしれない。


ⅰ 家出をする:https://note.mu/welfare/n/nbc1fdb793c04

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