5 進路選択:就職先に学童を選ぶ


4 過去回想:支援の歪みは成育歴からhttps://note.mu/welfare/n/n0bebff4c9d0a

大学卒業後は学童の指導員になりたいと思ったものの、
周りの教員や親たちは反対した。

「学童では(給料の面で)食べていけない」
「大学に入ってまで、学童に行くのか」
「学童なんて誰でもできる」

そのような言葉を浴びながら、しかしアルバイト経験から、
「本当にそうなのだろうか」と疑問に思っていた。

「学童とは福祉の専門性の問われる仕事ではないのか。
 それをこれから確かめに行こう」

という気持ちが、なおさら学童への就職に私を向かわせていたのだと思う。

一方で、
周囲の人に本当は応援してほしいと思っていたから、
批判されるのは正直ショックだった。

認められない進路を進むというのは心細かったが、
気持ちが揺れることはあっても、
誰に何を言われても
本当にしたいことを仕事にするという気持ちは薄れないから、
かえって思いは強くなっていたのかもしれない。

とはいえ、
あまりにも周囲から反対されるので、
福祉をもう少し広く見てみようと、
障害者施設の採用試験に応募したこともあった。

しかし
「学童に行きたいと思っている自分が
 軽はずみな気持ちで入社試験を受けていいのか」
という罪悪感のようなものがあった。

実習試験で、私は試験担当の方のもとで、
一日の流れを聞きながら利用者を見ていた。

実習試験の終盤で、
意志の疎通ができず、歩行がうまくできない利用者を
テーブルから車いすに誘導する、という課題に取り組むことになった。

しかし、私の呼びかけに反応はなく、
その方は体格がしっかりしていたため、
力でどうにかなるという感じでもなく、
私はただ見守るしかなかった。

結局、
その後の振り返りで担当の方から
「この仕事はゆっくりしている時間がない、というのは説明したが、
なぜ何もせず黙って見ていたのか」
と指摘された。

私は「利用者の様子を見ようとしていた」
と黙ってみていた意図を説明したが、
「仕事において、分からなかったら聞くのが当たり前で、
 報連相とはよく言うが、それが全然できていない」
 という評価を受けてしまった。

その試験は最終面接まで進めたものの、
面接官から仕事場と自宅の距離を指摘され、
引っ越す覚悟があるのかと聞かれて私ははっと我に返った。

「この職場では遠方の人は住まいを通勤圏内に変えるくらいの覚悟で
 この場にいるものなのか」

と思うと、軽い気持ちでこの場にいる自分をいたたまれなく感じたのだ。

面接の最中、
この仕事が仮に採用となったら自分は学童をあきらめるのだろうか、
などと考えていたが、考えるまでもなかった。
答えは学童に決まっていた。

面接官の方に忙しい中時間を割いてくださっているのも申し訳なくなって、恥ずかしくなった。

結局は最終面接のやり取りで辞退の意を示して終えることになる。

帰り道は学童の就活一本という気持ちが固まって、むしろ晴れやかだった。

学童以外の施設を見たからこそ得られた感触だったので、
結果的には希望する職種と違うところを受けたのはよかったのだと思う。

年明けから学童の就活を始めることにしたが、そう上手くはいかなかった。

私の住まいの周辺の学童を調べて、
上から順に電話をかけて求人を問い合わせても、
学童に必要な保育士も学校教職の資格もなく、
「社会福祉士はちょっと」と門前払いをされることもあったし、
男性というだけで断られることもあった。

早くも挫折しそうになったが、
児童指導員の資格が募集要件にある学童もあったので、
どうにか希望を繋げて就活を続けていた。

面接では、アルバイトではあるけれど現場経験があり、
即戦力としてのアピールを行っていくことにしたが

「なぜ社会福祉士を希望する人がここに?」
みたいな目で見られることもあれば
「本当に学童でやっていくつもりなのか」
と怪訝に見られることもあった。

おそらく、
社会福祉士という資格は福祉業界では就職に困らない資格なので
「すぐ辞めるのでは」という疑いをかけられ、
私の語りに首を傾げられてしまったのだろう。

学童という現場や支援が分かっている感を出してしまったのも、
生意気な新卒に映ってよくなかったと反省した。

毎回面接の度に、ノートに面接官からの質問と、
私の回答を書き出していた。

語り方を変え、
学童に関わるうち学童で働きたいと思うようになったこと。
社会福祉士を目指してはいるが、それは福祉業界をより知るためで、
むしろ学童でこそ活かせるかどうかを模索していきたいという姿勢を
前面に出した。

あくまでバイトは「きっかけ」として語ることにした。
地道な努力の結果、ようやく学童への就職を叶えることができた。

それから、
学童に勤める中で、
「支援する力」とはどういうことなのかを考えるようになった。

実践は常に試行錯誤で、
関わりがそのときは上手くできたと思っても、
子どもの成長に伴い
それまで上手くいっていた関わりが上手くいかなくなることもある。

子どもを知り、その時々で最善の手を打つために何が必要なのだろうかと、模索していた。

私が辿り着いた手法は、自分の実践をノートにまとめて振り返り、
その結果を真摯に受け止めて考察を重ねる過程を踏むことで、
支援をする力を地道に向上させていくということだった。

振り返りノートの書き方は、何か決まった形があるわけではないが、
私の場合は気になった場面を事細かに書き出していった。

たとえば、
子ども同士のけんかの仲裁の仕方や
注意をしたときの子どもとのやりとり、
おやつや片づけの誘導の声かけの仕方や、
ほかにもうまく言えずにもやもやしたことなどを振り返っては、
何を言えばよかったのかをまとめていた。

ある出来事についての前後関係。
そのとき子どもは何をしていたのか、
誰といたのか、自分はどうしたのか、
ほかの支援者はどのように関わっていたのか、
その後どうなったのか、
心はその過程でどのように動いていったのか。

考えられる可能性を書き出していった。

最初は思い出せることは大雑把で失敗や反省ばかりで、
子どもに何も言えなかった場面だったりした。

次はどうするのか、なぜそれがいいと思ったのか、
何を教えたいのか、伝えたいのか、変えたいのか、
何をもって失敗だと思ったのか、そのときに自分はどう思って、
判断し、何を意図して、そのような関わり方をしたのか。

さらに、そのとき子どもはどう思っていたのか、
そのときの状況はどうだったのか。
その後どうなったのか。

振り返りノートに書ける内容は、
徐々にではあるが、芋づる式に増えていった。

支援の振り返りをすることで、少しずつ、軌道修正ができていく。

自分の中で、どういう関わりが上手くいくのか
フィードバックが得やすくなっていくことで、
支援がどのような手順で進んでいくのか、
感覚的に分かってくるようになった。

たとえば、
子ども同士が取っ組み合いのけんかをした場合。
たまたま近くにいたので、その場に介入する、という場面を考えてみる。

叩かれた方が泣いていたとすると、
どうして泣いているのかをその子に聞いていくことになるが、
お互いに「叩いてきた」「叩いてきたから叩き返した」と主張されると、
どういう経緯で叩くのに至ったのかが分からず、
その場では「叩くのはよくない」という注意で終わってしまう。

しかし、
後から振り返って、
「あの子はどうして泣いていたのか」と考えていくと、

そもそも二人のやりとりに
私自身が最初から注意を払っていなかったことに気づく。

そのとき、ほかの子と遊んでいて、しかも背中を二人に向けていた、
と思い出せたなら、立ち位置がよくなかったと分かってくる。

今後はなるべく死角を作らないように位置取りをして視野を広くする、
視界に入らない子どもがいたとしても目配り気配りをして、
なんとなく全体の子どもに注意を払うといった次の動きが分かってくる。

この振り返りは、その現場で感じた自分の感情も含めて行うべきだ。
過去の体験から感情が湧き起こったなら、向き合ってみる。

このように振り返りを重ねていくことで、
位置取りからやりとりの具体的な内容へと
改善点が変わっていったのだった。

自分の考え方や価値観のもとに、子どもと向き合っていると、
「暴力をしてしまう悪い子」という結論に行きついてしまうことがある。

これでは対応を変える視点にはならず「この子が悪い」
という考え方で終わってしまう。
それでは何も変わらない。

まずは自分の考え方に焦点を当てて、
多角的に振り返ることができるかどうかが、
支援を軌道修正していくには必要なのだ。

私の場合は、それを書き出すことで行っていた、ということだ。

こうして書き出すことで、子どもの言動と、そのときの状況、
自分の客観的なふるまい、それらが俯瞰して見えるようになっていった。

それらを総合的に踏まえて見立てをするが、
大事なのはそれもまた一つの仮説にすぎない、ということだ。

今目の前にある子どもの状態は成長過程の一部分であり、
時間と共に変わっていく。

いつまでも同じ関わり方が通用するわけではない。

それは支援という名の検証を絶え間なく繰り返すことであり、
支援とはとても科学的な過程で行われていることが分かる。

「利用者が分かる」「支援ができる」とは、
これほどまでに多様な思考の過程にあるのかと、その奥深さに魅入った。

しかし、その本質は、関わりが合っていれば上手くいくし、
合っていなければ上手くいかない、
という意外にもシンプルなものだったりする。

支援の答えは利用者が変化という形で示してくれるだろう。

納得いかないことで書き出しているうちに、
もう一つの新たな解釈が生まれ、やがて利用者の心情が腑に落ちる。

自分の心情や思い込みのルーツが垣間見えたり、
当たり前だと思っていた価値観がそうではないかもしれないと気づく。

まるで目の前の壁に少しのひびが入って、
割れ目の向こうに新しい視界が開けるかのように。

そうすると、それまでの悩みが形を変えていたりする。

意図すればいいというものではないけれども、
意図しなければよりよい支援へと近づくこともできない。

支援とは、
支援者が利用者の幸福について考える一つ一つの過程なのかもしれない。

上手くいかないときほど、それは苦しい作業にもなる。
自分の見たくない気持ちや弱さと向き合うことにもなるかもしれない。
けれどもそうした日々の積み重ねこそが、確かに自分の糧になる。

信念をもってこの仕事をやっていきたいと思ったとき、
このような糧が、どれだけ自分を支えてくれるだろう。

6 研修:子供の権利
https://note.mu/welfare/n/n5f66c1e574c5

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