6 研修:子供の権利


5 進路選択:就職先に学童を選ぶ
https://note.com/welfare/n/n64c622dca7ed


学童での仕事を通じて、
気づけば私は十年後を見据えていた。

「これから先、
 私たちが支援した子どもはどのような大人になっていくだろう」とか、
「今、自分に何が伝えられるだろう」とか、
「どのような関わり方が必要だろう」とか。
そいうことを考えてばかりいた。

私が関わる子どもたちは、今が十歳前後だとしても、
十年後には大人になっている。

目の前の子どもはそういう未来を持っている人たちで、
自分が関わっていられるのは、
子どもたちの本当に僅かな時間の中の一部分だと
強く意識するようになっていた。

子ども一人一人の傾向、性格、長所短所、あるいは課題、
そういったものを総合して、その人生はどのようなものになっていくのか、想像しながら今を見つめて、関わっていく。

そのような関わり方は、
もしかするとその子の人生に何の影響も与えないかもしれない。
それでもあきらめない。

「もしかしたら何度も伝えたこの言葉の意味が、
 今は分からなかったとしても、十年後には気づくかもしれない。」

子どもたちに一度伝えて届かなかった言葉でも、
根気強く何度も伝えていく。
そこにいくばくかの願いを込めて。

私にできることは、今から未来へと継続した幸せのために、
子どもと関わっていくことだった。

「支援者がいなければいけない」ではなく、
「支援者がいなくても大丈夫」になっていかなければいけないと、
児童福祉への見方が大きく変わったのだ。

支援の過程で、
一度は依存的な関係にはなるかもしれない。
でもそれは過程であって、いつか自立へと抜け出るものだ。

子どもにその時期が来て自分の足で歩き始めようとしたなら、
支援者は二人三脚のように伴走者として繋いでいた手を、
段々と解いていく。

目指すのは子どもの幸せだ。
支援者を必要としなくなっていく子どもの成長過程を喜べないと、
この仕事は虚しくなってしまうような気がする。

そう気づいたとき、悟ったのだ。
自分はこの学童の世界で起こるさまざまな物語の主人公じゃない。
学童における支援者とは、子どもを主人公とする「伴走者」なのだと。

支援者は、
子どもの人生からすると、
生活の一部に登場した人物でしかない。

支援者にとっては仕事で、
子どもにとっては人生で、

その人生をよりよくするために関われたかどうか、
その手応えと願いだけを、
未来に持っていけるのだ。

とある研修に出たときのことだった。

研修会で出された事例で、
ある子どもの姿が「自分勝手」というように語られていた。

詳しい内容は覚えていないけれど、
その子は支援者を突き放したり、近寄ったりと、
愛着的な課題がありそうに思えた。

事例を説明する支援者は関わりを模索しており、質疑応答で、

「結局自分は子どものために力を尽くしても、
子どもたちはそれを利用しているように見えてしまう。
時々やるせなくなってしまう」と語った。

その「やるせない」という一言で、私は大学の実習を思い出していた。

社会福祉士養成で行われた、
さまざまな福祉施設に4週間泊まり込んで行う実習。

私が選んだのは児童養護施設で、そこでの体験は衝撃的なものだった。

親がいない、出て行った、育てられない。
育てる気がない、入院している、貧困であるなど、さまざまな理由で、
親と離れた児童が施設に入所しており、
彼らは集団生活のユニット式

(年齢層がばらばらで中には幼児もいる。
   高校生までの十人前後が生活する)

で代わる代わる支援者から養育を受けていた。

親と暮らすのが必ずしも幸せとは思わないけれども、
その境遇、状況には「やるせない」ものがあった。

高校に行けても、次に選択できるのは就職しかない子も多く、
大学の進学も資金面や学習能力のハンディキャップのせいで
選べないことが彼らの常だった。

ある日、私が夜に添い寝をした年長の幼児が
「生きることが怖い」「死にたい」と言ったとき、私は言葉を失った。
年長だから、たった5年生きたくらいの人生だ。

そのような短い人生で、
すでに死にたくなってしまうというのはどれほどの苦しみだろう。
それはいくら想像しても追いつかないようなものだった。

施設を出た後、
親がいないというだけで就職という進路しか選べないことも、
「やるせない」と感じた。

子どもたちにはどうしようもできない、
社会的な課題のせいで、
選択肢を狭められているのだ。

せめて、進路が就職だけではなくて、
何かやりたいことへの選択肢が少しでもあるような状況にならないものか。

資格を取りたいでもいいし、
何かやりたいと思ったことへの後押しのような制度はないものなのか。

親のいない環境で育ち、大人との関係が必要な時期に、
その体験が埋めがたいものがある中で、
施設を出たら働かなくてはいけない、ということの現実が、
あまりに理不尽なのではと憤った。

施設を出て、働いた人たちは、
今度は自分の人生をどうやって作っていけばいいのだろう。
そのときに味方になってくれる人はいったいどれくらいいるものなのか。

思ったことをそのまま担当の支援者にぶつけても
「大学行っているのがそんなに偉いのか」
と言い返されて終わるだけだった。

果たして児童養護施設の子どもたちは、
自分の意志で「大学に行かない」という選択を選んでいることになるのか。
それは本人の問題ではなく、社会の問題ではないか。

きっと当時の私は、議論がしたかったのだ。

どうすればこの社会がもっとよくなるのかを、
誰かと考えたかったのだろう。
支援を通して社会を考えてこそ、福祉だと、思ったのだろう。

だから、参加した研修で
「子供が大人を利用しているように見える」
という趣旨の発言に対して、そのときの実習を思い返しながら、
私は違う見方を言った。

利用するって、それほど悪いことだろうか。

「利用すればいいんじゃないか」と私は言った。

養護施設での実習で、親がいない、自分の味方を切実に求める、
上下関係で生き抜くための振る舞いを身に着ける、
そうした状況下で生活するあの日の児童の姿を思い出していた。

「そもそも子供は社会的に弱い生き物だし、
   大人に守られなければ生きていけない存在だ」と。

「彼らが生きていくために大人を利用するように見えても、
それは仕方ないのではないか。
むしろ、そういう存在だということを踏まえて
関わっていくことで育まれる関係を、
こちらは大事にして見守っていけばいいのではないか」と。

そのように話しながら、全然関係ないけれど、

以前読んだ
よしもとばななの小説『キッチン』で
「利用してくれよ」と主人公に語りかける男の人が思い浮かんだ。

寄り辺のない主人公に対して
全てを受容するように接する男が口にした「利用」という言葉は、
慈悲というか圧倒的な許しというか、

人柄から滲み出た優しさによるものがあるように思えた。

最後に人を救うのはそういう
「すべてを受け止めるほどの優しさ」のような気がしたのだ。

福祉もそうであってほしいと、私は思ったのだ。

研修が終わって、席を立ったとき、
私よりも二回りくらい上の年齢の方から、
「とても大切な意見だと思いました」と話しかけられた。

「利用してもいい、なんて、若いのによく考えられていますね」と。

「あなたはいい支援者になりますよ」と、
その人はおっしゃってくださった。

あれから何年も経ち、
果たして私はいい支援者になれただろうか、
と時々思い返す。

目の前の子どもにとって、私はそういう存在でいるだろうか、と。
その度に、あの日いただいた言葉に恥じない自分でいたい、と強く願う。

その後もいろいろな研修に参加したが、
とある研修で講師の名前に心当たりがあった。
卒業論文で参考にした書籍の著者だったのだ。

その書籍にあった考え方に、

一人一人に合った支援をする必要があり、
三十人の子どもがいれば、
三十通りの状態と支援があるというものがあった。

私はその考え方に大きく影響を受けて、
そういう一人ひとりに寄り添える支援者でありたいと思った。

大学時代に目指した人が、
今目の前で教鞭を振るっていることに何か言葉にできないものを感じた。

さらに、研修でその講師が話す度に感じられる、
書籍に書かれた言葉と何も変わらない姿勢が胸を熱くさせた。

あのとき指針にしようと思ったその人は、
いまだに福祉の最前線で熱量を保ったままの姿勢で、
戦っているのだと思うと、自分の価値観や大切にしたいことは、
間違っていないと何度も勇気づけられた。

話しかけたいと思ったが、
面識のない若者が突然近づいてきて握手を求めるか、
熱量をもってコミュニケーションをしようとしたら、
大抵の人は面食らうのではないだろうか。

気後れしてしまって、毎回、声をかけられなかった。

その研修に背中を押されるように、
いつも「今日、最善の支援をしよう。」
と思って学童での支援を続けていた。

そこには「子どもの最善の利益」という価値観が
念頭にあったのかもしれない。

「児童の権利に関する条約」で謳われているその文言は、
児童福祉が目指すべき指針だと思っていた。

でも、私の姿は、

周囲からすれば
子どもが言うことをなんでも聞いてあげているようにしか
見えなかったのだろう。

ほかの支援者からは「それでは子どものいいなりだ」と言われたりした。

それは「理論だけでは意味がない」という批判だった。

私が子どもに一度伝えて届かなかった言葉でも、
根気強く何度も伝えていく姿もまた、
「子どもが分からなくても、ただ注意して満足するだけ」
というように見られていた。

ようするに、
私の大事にしたいことは何も現場では共感されていなかったのだ。

学童で専門性を高めていこうと意気込んでいたが、
若い支援者がなにをしたところで、
従来の人の考え方や価値観は変わらない。
相手を否定しても意味がないし、
私も自分の正しさを主張したいわけでもなかった。
ただただ、分かり合えなかったのだ。

福祉の現場での「理論への非難」や「大学への懐疑的な考え方」について、学問とはどのような意味があったのか、
実践と理論の関係について、
ここで一つの答えを出したいと思う。

大学生の頃に
学童での実践と学問としての福祉で日々学びを深めていた私にとって、
それらの一番の学びは
「福祉とは何か」「福祉とはどこを目指しているのか」
がはっきり分かったことだと思う。

「人権」、「社会正義」、「平等な社会」
といった福祉的なキーワードを並べていくと、
福祉の実践とはいかに他者を理解して関わるか、
という方法論に行き着くし、
理解ができて関ることができるということは、
相手と共に生きることを肯定し、
お互いに認め合える社会づくりの模索へと収れんされている。

誰かを拒絶したり、罰を与えたりするような関わりは、そこにはない。
つまりはこの価値観は、
相手に対して最善の関わりをしていこうという姿勢を形作っていく。

特に印象に残ったのは「児童の権利に関する条約」だった。
中でも衝撃だったのは、最善の権利と、遊ぶ権利の保障であり、
子どもには子どもの権利があるという考え方だった。

つまり、遊ぶことは権利だと。
成長発達は権利だと。
そして、子どももまた、一人の人間として尊重されるべき人権があると。
そういうことが書かれているのだ。

自分の成育歴と照らし合わせたときに、
自分の考えを尊重してくれる大人がいただろうか。

それを、誰もが「わがまま」や「甘い」という言葉で
一蹴してこなかっただろうか。

そうか、それは権利だったのだ。

あのとき感じてきた様々な葛藤や揺らぎは承認されてよかったのだ。

「権利」という文言が、絶対的に自分のことを肯定してくれていた。
だからこそ、それは衝撃だった。

それを教えてくれた学問は私にとって、指針だったのだ。

だから私は福祉を絶対的に信じて、やってこれたというのもある。

もしも世界人権宣言が差別や迫害を肯定していたら、
世の憲法が人権の侵害を肯定していたら、
私は福祉を、ひいてはこの世の中を信じていなかっただろうし、
もしかしたら職業選択の段階で人生を投げ出していたかもしれない。

学問で大切なことは「知識」を学ぶこともそうだけれど、
「高い価値観を学ぶ」ことにあると思っている。

子どもが遊びたいと主張したときに、
それを「わがまま」や「好き勝手なことを言っている」と見るのか
「権利」として見るのかではその接し方がまるで変ってくる。

高い価値観は支援を更新するのだと思う。

学問で身に着けた技術や知識を
どの方向に向けて使えばいいのかまで知って初めて、
実践で活かせるのではないだろうか。

子どもは大人の言うことを聞いて当たり前。
言うことを聞かない子どもはダメな子ども。いい子以外認めない。

そのような価値観が世に浸透しているとしても、
福祉がサービス業であるならば仕事として目指すところは、
最高の支援になるはずだ。

子どもを否定するというのは、客を否定するのと同じではないか。

ある研修で心に残ったのが
「この仕事は優しい人間を育てる」という議論だった。

学童の指導員としての存在意義について、
この仕事がどこに向かっていくのかについて、
出席者で討論する形式の研修だった。

話の中でこの仕事への想いとか、先行きの不安とか、
どのように仕事をする気持ちを持ち続けられるかの話をしていて、
それでも「この仕事が好きだから続けたい」という話は

聞いていてとても面白かったし、
その熱量が嬉しかったのを覚えている。
職場で批判をされたことで、揺らいでもいた。

大学で勉強してきたことは意味がなかったのだろうか、
と思った矢先に、
こうして気持ちを同じくする人たちに出会うことで
大きな勇気をもらったのだった。


二章 児童福祉から障害福祉へ

1 再始動:学生時代の問題意識を抱えて
https://note.mu/welfare/n/n4d90d9bc54ad

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