5 三事業所から福祉について考える


4 放課後等デイサービスについて
https://note.mu/welfare/n/n8ea50ee673fe

ここで紹介した三つの事業所は、形体は違うのだけれど、
目指しているものは一緒だと思っている。

グループホームは「生活」を通して、
作業所は「作業」を通して、
デイサービスは「遊び」を通して、支援を行っている。

それぞれが目指しているものは、
利用者の「成長・発達」であり、
「その人なりの理想の生活」である。

「児童」の領域が「成人」の領域とは関係がないというわけではない。

人が成長する中で、成長しきっていない部分や、
止まっているような部分もある。

その課題は、成育歴や家庭環境や親子関係、周囲の関わりによっては、
乳幼児、児童期で止まっている場合もある。

児童の成長課題を未解決のままで成長した姿の一端を、
成人の利用者の課題に垣間見ることもある。それらは繋がっている。

だから、
自分の支援する領域とは一見すると関係のない事例を見たときに、
自分が所属する福祉事業所と比べて
「成人だから/児童だから関係がない」という見方はもったいない。

せっかくなら、
「あの利用者のこの部分は通じるものがあるかも」とか
「あの利用者も子どもの頃はそうだったのかな
    /あの利用者が大人になったらこの課題を引きづっているのかも」、
そういう視点で見たとき、
福祉という領域の本当の広大さが見えるように思う。

福祉を考えたときに、
「資格」をまずは考える人が多いかもしれないけれど、
資格の意味するところは、単なる専門的な知識・技術の担保なのだと思う。

私が今いるのは「障害」という領域だけれども、
さまざまな分野の勉強は続けながらも、
「どこと繋がっていくか」
「何が広がっていくか」という点に意識を向けていきたい。

これまで私の所属する福祉事業所について考えてきた。


最後に、そのおおもとの「福祉」について考えたい。

「福祉」の「福」も「祉」も、どちらも「幸福」を意味している。
なので「福祉」とは幸福を意味する、はずなのだが、
社会的に見ると、必ずしもそうとは限らない。

支援にあたって、
利用者の今の生活の質が下がらないようにすることを目指したり、
今よりもよくなったりすることに目標を設定したとする。

しかしながら、
それは国の経済発展のように際限なく上がっていくものではない。

福祉の目標は、
社会的な富や名声を得た成功者や億万長者と同等のものではないからだ。

たとえば生活保護法や生存権では、
福祉とは、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」
という意味合いで使われている。

字が示す「幸せ」なはずの福祉は、
制度としては「最低限度」のニュアンスを含んでいる。

多くの人が「福祉は介護のイメージがある」と語るときに、
言いたいことは伝わるのだけれど、
「そもそもどうして福祉って限定的な捉え方がされているのだろう」
と首をかしげるような部分があった。

確かに私にもそういう見方をしていた頃もあった。
その先入観を辿ると福祉の仕事にまつわる否定的な印象は、
日本の社会制度から発せられるメッセージを
発端にしているような気がする。

これは日本の話で、もう少し広く「福祉」を見ると、どうなるのだろう。

これを英語にすると、その意味はまるで変ってくる。
「福祉」とは「wellfare」と言われる。
「Well」―「fare」、
「平等」に「よい状態」をもたらす取り組み全般という
意味合いになっている。
「wellfare」の目指すものは「well-being」とされている。

「よくある状態」であり、満足や充足感といった、
満たされている状態を目指している。

「最低限度」ではなく、「幸福」だと。
両者の価値観の違いには歴史的経緯があるため、
その文脈を理解しないと先入観に繋がってしまうように思う。

ざっくり言うと、欧米において福祉と宗教は関係があったし、
それは戦争とも関連があった。

戦争の被害者は障害を持つだろうし、
そういった反省と人権は切り離せないし、
それらの認識が昨今の欧米の福祉へと繋がっていく。

前に「善悪の判断の基準の最高峰は憲法に寄る」という話をしたけれど、
これはあくまで日本という国の話だ。

これを世界のスタンダードから見るならば、その最高峰は人権となる。
これは法律の話ではなく、国際連合が採択した、
国際人権宣言に基づく人権の話である。

人としての幸せを考えたとき、
すべての人が人としてあるために認められるべき権利と、
人が等しく平等によい状態を目指す福祉の在り方というのは
鏡写しのように重なって見える。

福祉を考えるということは、人権を考えるということなのかもしれない。

この本はあくまで福祉について論じるもので、
歴史について語るものではないので詳細は省くけれど、
福祉に携わる人が
全て福祉の用語や歴史的な背景を理解するべきという話ではない。

けれどもこの福祉観を理解した上で、福祉に携わるか否かでは、
仕事への目指す地点がそもそも変わってくるのではないか。

たとえ日本がその地点と合致していないとしても。

より高い理念は、行動原理そのものを変える。

子どもの権利条約には、様々な権利が挙げられているが、
その中でも「成長」と「遊び」の権利に注目したい。

遊びを自分勝手なわがままと捉えるのか、
それを成長に必要な権利と思うかでは、
捉え方は大きく変わってくるだろう。

また、言うことをきかせる対象として不完全な子どもとして関わるのと、
最善の利益を考慮し、
権利を持つ完成された子どもとして見るのとでは、
支援者の姿勢はまるで違ってくるのではないだろうか。

自分の働き方として、その最高に理想的な支援の在り方を目指すなら、
支援の先にあるのは人としての尊厳や普遍的な生活の実現に直結する。

専門用語でいうと、
ノーマライゼーションだったりソーシャルインクルージョンだったりする。

福祉とは幸福である。そのためのサービスが支援である。

私は、福祉という仕事をそのように解釈したい。

少なくとも生きることが権利というならば、
ただ生きればいいというものではないはずだ。

どのように生きていくか。
当然、その中身が問われることになる。
生きて、成長し、老いていく。働き、出産し、結婚する。
ときには介護をし、仕事を失い、子育てもする。
そうしたことの全ては生きる中で自然に訪れる変化であり、
必要な営みだ。

それらすべては、
当事者の「自分らしさ」の実現のための軌跡であってほしいと思う。
きっと誰もがそう思う。

自己実現のための人生であり、生きるということが、
すでに一つの自己実現を含んでいる。

そういうことの中に、福祉というものは息づいている。
少なくとも、対象となる利用者によって、あるいは行政と民間によって、
一括りに仕切られるようなものではない。

福祉を問うならば、幸福について問いたい。

支援を問うならば、理想を問いたい。

理想と現実は乖離するのが常だ。

しかしその中でどうやって橋を架け、渡っていくのか、
その歩みは利用者の意思と歩みによってでしか実現されない。

その可能性を支えるのが支援だ。
どうか「仕事」という責務の重さに「幸福」を見失わないでほしいと思う。

福祉とは生きることそのものを指している。

よりよい支援を目指すことは、
よりよい生き方を模索することと同じではないか。

さきほど触れた
「ノーマライゼーション」という
誰もが普通の生活ができる社会の在り方を目指すこの理念は、
国全体に浸透していかないと実現することはないだろう。

そう考えていくと、福祉施設の従事者は、
社会福祉関連法で位置づけられているから、
見方を変えると、すべてその法律の体現者ということになる。

いわば、人権の履行者だ。

支援者一人一人が努力したところで
社会が変わるのかと言えば分からないけれど、
でもその権利や理念の実現は間違いなく、
支援者の手にあるのだと思う。

(https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=325AC0000000144_20220622_504AC1000000077)
「生活保護法 | e-Gov法令検索」より出典

五章 社内研修とSNSのお悩み相談室

1 社内:社員の悩みを聞くようになって
https://note.com/welfare/n/n2a4e5790a509

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