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湯気のように立ち消える雑談、掴まえました

皆様、ごきげんよう。

ここはモヤ深まる夜中、門を叩くと開かれる保健室。私的エスケープ空間です
 
当主は、わたくし、わっか ○
何者なのか。しいて言えば、人間研究ヲタクとでも言いましょうか。

ハードモードな人生を送ったことから 日や自分のこころを観察・実験・洞察することが趣味と化した、読書をこよなく愛する(たぶん)やや変わり者です。
この度、第二弾ウィークエンドテンダー(以後WT略)の場に 再びやってまいりました。
 
 
さて今回、WTメンバーであるsonohouさんから雑談希望の声が掛かったことをきっかけとし
おなじく同メンバーであり主宰のテラニシくんも加わり、某日おふたりを交え 雑談会を催したのがはじまりであります。
こちらがなかなか興味深い内容となりましたので、改めて わが保健室にゲストとしてお招きし、その様子を正式に収録いたしました。
 
はじめましての方も、ご無沙汰しております の方も、この二日間の箸休めに‘雑談’という ささやかな息抜きをお届けいたします。
 
今週末にWTという おうち時間のお供を、
味わい尽くしていただけますように・・・

どうぞ最後の一瞬 一滴まで。
 
 
 
それでは雑談、心おきなく覗き見くださいませ
 
 
 
 




「ジブンのなかに5人いる」
 
わ:テラさんのあの話から、まず振り返ってみましょうか
テ:振り返りますか。全然、振り返るとは思いもよらず・・・(笑)
わ:ハハハ(笑) まさか ほじくり返されるとはね。
ソ:でもあの、聞いてた側からすれば「自分の中に5人もいるんだ!」って。
わ:あー そこなんだー
ソ:5人って、結構多いなって思ったんですよ。でも みんないるのかなぁ
わたしの場合はそこまでいる感じがしなくて。自分ともうひとり、基本そのふたりで。その二人ではどうにもならなくなったとき3人目をチョット召喚する、みたいな(笑)
わ:召喚!(笑) アハハ
ソ:たとえば、両方とも疲れちゃったときとかに(笑) だから‘5人’に驚いたんです
わ:でも、わたしもそうかもしんない。ソノホウさん寄りかも、二人だわ。表の自分と 内側の自分、って感じで・・・
はじめさ テラさんの話を聞いてて「なんかピクサーにそういう映画あったよな~」て思い浮かんだんだよね
テ:なんでしたっけ・・・ たしか『インサイドヘッド』とかでしたよね。
わ:そうそう。いろんな、喜怒哀楽の感情が主人公 って設定のおはなし。だから勝手に、そんな感じなのかな~って。イメージしてた。
テ:そうですね、ぼくのイメージでは水城(せとな)さんの『脳内ポイズンベリー』の・・・
わ:あーー!(笑)
テ:マンガなんですけど 主人公の女の子の脳内会議のおはなしで。記憶担当 とか、それぞれに担当がいて、それが脳内でわちゃわちゃする、みたいな。
わ:しかもあれって、擬人化してあるんだけど見た目はぜんぶ、自分じゃないんだよね
テ:そう、見た目も違えば苗字も違う、っていう・・・
わ:司令塔担当なんかはダンディなおじさまだしね。年齢も性別もバラバラなんだよね~
でもさ。こんなふうに会話してると 改めておなじ会話を聞いてても思い浮かべることとか引っかかるとこは、個人(ひと)によって、やっぱり違うんだなって。
そもそも、この話題の元ネタ(テラ氏のエピソード)は、たしか「心にずっと怒ってる自分がいて」っていう話だったよね。
テ:そうですね。
ソ:なんか、普段は寝てるんだけど たまにめっちゃめちゃ暴れる人物がいるっていう・・・
テ:なんでこの話 したんだっけ?
わ:んーとね・・・。 あ! 思い出した!
ソノホウさんの「他人(ヒト)と向き合う前に、自分と向き合って 己の感情を掬えるようにならなきゃ 意味ないんじゃないか」って、そういう話がはじまりだったんじゃなかったかな。
テ:その話の流れで、ぼくが1年弱インドネシアに滞在してた頃のエピソードになって。
その当時、ぼくの周りには日本語話せる人がほとんどいなかったから必然的にひたすら自分と向き合う時間はあったんだけど、稀にどうしようもなく辛いとき心に現れて暴れまわるヤツが自分の中にいるんだけど そいつと時間をかけて対話していったら怒っているわけでなくて、実は、どうやら凄く悲しんでいるんだと気付いて・・・
それがわかるようになってから、自分のどうしようもない爆発的な 暴力的な 衝動的な部分とも少し、上手く付き合いけるようになったんですよね、みたいな。そんな話をしたような覚えがあります。
わ:そうそう、そうだった~。鮮明に思い出したけど、改めておもしろい話だね
テ:これ、あんま人に話したことない・・・
わ:ちょっと照れちゃうね(笑)
テ:そうですねぇ(笑)
わ:こういう、普段 自分の中だけで起こっておさまってる話ってあんま人に言わないもんね。
でもこの話って、いまの状況にマッチしてるなって。コロナで外に出なくなったぶん自分の中の対話って 否が応でも増えざるを得ないというか。でも、それに反して(内面との対話に)慣れてない人たちって多いんだなと。
日常的に心と向き合ってる、というか、(心という)目に見えないものを大事にしている人ってやっぱし強いよなって。こういう不測の事態のときになってみて、わたしは思いました。
ソ:そういえば、コロナ初期の頃にメディアで三谷(幸喜)さんが「ぼくはコロナがはじまる前から自粛中のような生活だったからあまり変わらない」みたいなことを言ってて
一同、笑)
ソ:それが可笑しく思いました。
わ:でもパッカリ二極化してそうだな、そこも。かなり変わった人もいれば、淡々とあんまり変化を感じてない人と・・・。
テ:たしかに、ほんとそうですよね。
 
 


「ちがいは 風穴に化ける」
 
ソ:ふとしたときに 過去の発言・・・たとえば。
いま自分が感じてることを素直に表現したときに、こちらに悪意がなくとも(対象への)想像力に欠けていて、失礼だったんじゃないかなって 配慮が及ばなかったことに後悔することがあって。
わ:あー わかる・・・。わたしもよく あとになってから「そういえばあれって・・・」てハッと思い返すよ。思いがけず、受けとり手を不快にさせたり傷付けてしまっていたような気がしてきて・・・ そんなときは決まって、静かに、一人反省会してる(笑)
特にSNSは気軽なぶん、自分にはそんな場面が多かったから「言葉が孕む影響力」みたいなものを肌で感じていて、段々、発言すること自体もなんだか恐ろしく感じてた。
(※わっか、現時点ではツイッター未稼働)
ソ:わたしも、普段から人にどう思われるか過剰に気にし過ぎちゃうときがあって、そうなってくると発言自体がしにくくなってしまうのはありますね・・・ そこは自覚は出来てるんだけど、どうにもできない部分ではあって。
わ:内側の声ばっかり溜まるよね。わたしの場合、自分の対話だけ過剰になると段々渦巻いてくるというか・・・。対話が足りないのもストレスになるけど、エンドレスに自分の中だけで自問自答し続けても、なんていうのかな・・・ 空気が悪いというか換気がないような感じがして息詰まりが結構でてくるから(笑)
そいうとき、自分じゃない外側の‘第三者’の存在が必要で。そういうときする会話は決まって、意見が違っても「あ~ そう捉えるんだ」って、自分の勝手な‘こう思われてるんじゃないか’って思い込みが外れる、新鮮な感覚があって。
だからこうやって、いまみたいな外の声が 直で聞けるのも(内側との対話も含め)両方にそれぞれいいなって思う面がある。まぁ要は、その割合というか バランスの問題な気もするんだけど(笑)
(※割合例/ 内7:外3とか)
テ:なんか自分の中だけでずーっと対話し続けて悩み悩んでいたことが、全く関係ない人と話したらあっという間に解決しちゃう、なんてこと、結構ありますよね。
全:あるある(笑)
わ:カタチは少し違うんだけど。
このトークを振り返ってみても、自分が言ったことでまさか人にこんなにおもしろがられるなんて思ってなかった部分をチョイスとかピックアップされたりするのにも「へぇ~!そこなんだ!」って新鮮さがあるよね。
これって、人と人がぶつからないとわからないことだし、そこが自分の中だけじゃ生まれないおもしろさなんだろうなって、思います。
ま、煩わしいことも勿論あるんだけどね!(笑)
 


「他人と、距離感」

 
わ:いま話しててパッと思い出したんだけどさ、わたしが好きなエッセイ漫画にさわぐちけいすけさんの『妻は他人』って本があるのね。
テ:あ~ いいタイトルですね(笑)
わ:夫婦のエッセイなんだけど、従来の夫婦観とは少し違っていて「家族だったらこうするのが当たり前だよね」とか、嫁だったら・夫だったら のあとに続く‘こうあるべきでしょ’みたいなのがない関係で。
このタイトルって捉え様によっては冷たくも感じるんだけど、このシリーズには一貫して「夫婦だけど元々は他人だよね」っていう配慮を伴った距離感がしっかりあるのが毎回なんとも新鮮で、このシリーズは視点がどれも結構おもしろいんだよね。
たとえば、‘料理は嫁仕事’みたいな感じがなくて「手が空いた人が作ればいいんだよね」っていう感覚でこの二人はやっていて。究極、自分のものは自分で作ればいいじゃんって感じが すがすがしいほどある。
そうなると不満がる人たちもいるだろうけど、そこよりメリットのほうを享受して楽しんでて。作ってもらうのは当たり前じゃないから ありがとうっていう気持ちも自然と湧いてくるし、たまにあやかった相手の味に驚きもあったり。
‘基本 自分のことは自分でやる’スタンスが夫婦の関係性であっても根底にあるから、どの話を読んでても目から鱗というか。
ソ:へぇ・・・ なんか おもしろそう・・・
わ:なんというか、自分がいままで両親を見てきて自動的に染み付いてた‘当たり前’の概念に気付けるから、先入観から抜け出せたようで頭がスッキリするんだよね。
これってなにも夫婦に限らず、友人や上司とか、ほかのあらゆるポジションにも‘こうあるべき’って型に つい嵌めてるとこはあるのかなって。
わたしの場合、小さい頃 甘えれなかった母に対して消化不良感をずっと抱えてたけど、それを手放して‘母’じゃなく‘アキコさん’として、これからは並列な立場で向き合っていくって決めたら長年の憑き物が取れたって話をこないだしたけど、これも‘母’っていうイメージを嵌めてたことが苦しみの要素になってたんだよね。
でも当然すぎて、自分は嵌めてるとすら思ってなかったんだけど。メガネが馴染んで掛けてるのすら自分で忘れるように(笑)だからそのメガネ(ポジション+~すべき)を外したら視界が凄くクリアになってた。
結局、世の中の人間関係で起こるストレスの「なんでこうしてくれないの!」って、根本は結構ここに集約されていく気がする・・・
テ:特に家族とか(間柄が)近くなればなるほど忘れがちになりますよね、‘相手が自分ではない’という事実を。頭ではわかった‘つもり’になってんだけど。
ソ:たとえば・・・ 奥さんだったらこうしてくれて当たり前みたいに思うのって、期待というか。
その相手への期待って‘甘え’なんだって、お世話になってる精神科の先生がよく言ってるんだけど。わたし自身その‘無意識のうちの期待’と向き合ってて、それがなくなると とてもラクだって聞くので、そこについては現時点でも考えてる真っ最中です。
わ:期待と甘え、ねぇ・・・。
それだと、わたしが普段の仕事で関わる子どもなんかの場合には それを暴力っていう、バイオレンスな手段で相手にアピールしちゃうケースってあって。時間かけて接するほど実は怖がりな子ほど衝動的な暴力に走りがちなのが見えてくるんだけども、その裏にも「察してよ かまってよ」っていう甘えが・・・あるんだよね(笑)
モヤモヤしてる理由を正しく把握した上で 自分の気持ちを言葉にして伝える、って、大人も難しいとこあるから、それを子どもに求めるのも一筋縄ではいかないんだけど・・・でもやっぱ会話で解決してく習慣を少しずつでも身に付けてもらいたくて日々関わってる。
それこそ、さっきの‘テラさんの中にあった怒りの話’も裏側にある感情が「ほんとは悲しいんだって気付いてよ!」って、内側から訴えかけてたんちゃうかなって、わたしにはなんか通ずるものがあるなって思ったり。
テ:あ~ たしかに、そうかもですね。
わ:本音の部分って世間体が機能しない、ある種、子どものような世界だから。
オートマチックに湧きでる感情自体そこに近い存在だけど 一歩外にでればそれなりに世間のしがらみも考慮した上で行動に移すようになって、本音はそこに淘汰されて無意識の領域に埋もれていくんだよね・・・。でも、本来はそういうもの(しがらみ)一切関係ないエゴ高純度の、剥きだしの状態というか。
(※ここで補足の小話を。あくまで個人の経験を踏まえての見解なのですが、トラウマになるような強く傷付いた感情の記憶は自分を守るために脳が意識上から削除します。そういう、'悲しみの墓場'みたいなものが (相反した)無意識の領域には確実にあって、そこへ着実に溜め込まれていき、多少の差こそあれ本人の自覚なく 負債として蓄積されているものです。/わっか談)

 
 
「答え合わせよりも、自分の納得へ」
 
わ:親からの期待で伸びる子と、期待で押し潰される子の違い・・・何なんだろうね
テ:それでいうと、ぼくの名前がちょっと変わってて。よく小学校とかで自分の名前の由来を調べてきましょうっていうの、あるじゃないですか。
わ:ハイハイ あるねぇ(笑)
テ:そのときに親父に聞いたら「お前の名前は修平だろ、世の中を平和におさめるんだよ」って言われて、へ~ こりゃたいそうな かっけぇと思ってたらですね、よくよく考えてみると この意味って漢字これじゃないんですよね。
「平和におさめる」は統治の意味の‘治める’で、ぼくの‘おさめる‘は修学の意味の‘修める’なので・・・。 お? なんか違うぞ、と思って(笑)
一同、笑)
テ:そういや、たしか恩師の名前から一字もらったみたいにも聞いた気がしてきて、また改めて聞き直したら、今度は「いやいや、お前の漢字は画数がいいんだよ!」って言われて、あ 画数ね って納得したんだけど。
わ:お父さん、七変化するねぇ(笑)
テ:そしたら、たまたま ばあちゃんちの本棚にあった漢字の画数占いが載った本を見つけて、さてはこれで決めたんだな~って思って調べたら、あろうことか最悪って書いてあって。最悪 ってなんなんだよ、って・・・(笑)
全:アハハハハ(大笑)
テ:それ以来、別にそんな気にはしないながらも本当の由来何だったんだろうってモヤモヤした時期を過ごしてたんですけど、あるとき親とは関係ない場面でおなじように名前について話し合ってみようって機会が、就活のワークショップであって。
そのときに、いまみたいな話をしたら講師の方から「じゃあ もしかしたらお父さんは過度な期待を君に押し付けないよう、あえて深い意味を付けなかったのかもしれないね」って言われて。
わ:へぇ~ なるほどなぁ。
テ:エライ買い被ってんなぁ!とは思ったんだけど、でもたしかに自分の父親像としては そういうことを思ってもおかしくないな とは思ったし、その答えが自分ではシックリきたんで答え合わせはしてないんですけど。
だから、そういう「期待をしない」っていう親も、なかにはいるんだな って。なんで、今日も自由にこうしてコーヒーを淹れるような生活をしていますが(笑)
ソ:スッゴく良いなぁ・・・。そこを あえて聞かないでいるのが、またおもしろい。
わ:縛られてないから窮屈じゃないよね。期待が重いとエゴで縛っちゃう場合があるからなぁ
テ:しまった・・・ なんか、キレイにまとまって良い話っぽくなってしまってんなぁ・・・(笑)
わ:いやいや! でもほんと、答え合わせより自分の納得のほうが 今後を生きていく上でわりと重要になるというか。
全:うんうん
わ:‘腑に落ちる’ってことのほうが、
ソ:だいじ。
わ:うん、そっちを重視するほうが幸せな気がするんだよなぁ。
 
 
 
次回、
「心配よりも、わたしが欲しかったもの」
に、つづきます。


では明日、またお会いしましょう。

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