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医療系職種における研究業務の価値~市場価値と自己肯定感のはざまで~

医学系論文の中には、ざっくり言うとマウスや細胞を扱う研究のほかに、実際の臨床データを扱うものがある。
どんな研究にも倫理面への配慮は必須だが、その責任が帰属する主な対象は医師である。実際の臨床においてもそうであるように、医療というフィールドにおいては医師の権力、責任が強いのだ。このような歪な場の中で感じたことを書いていきたい。
まず言っておきたいのは、自分は研究に関してアンチの立場ではない。かといってガチ勢でもない。キャリアの中でたまたま研究に携わることになった人間でしかない。研究の持つ価値や面白さはある程度理解し、同時に何で研究してるんだ・・・?と悩む立場で、問題提起や備忘録として書いているつもりだ。

日本における研究の流れに加え、他国との比較については、リンクを一読されると良い。めちゃくちゃわかりやすくまとまっている。

あくまで欧米との比較ではあるものの、日本の研究を取り巻く環境が完璧なものではない印象は抱くだろう。


研究における責任者としての医師免許の必要性

患者さん達の臨床データを扱う研究において、医師がその研究に参加し、ある程度の責任を担うのはほぼ必須と思われる。実際にデータを集めたり、解析したり、論文を書くのが別職種だとしても、医師が研究に参加していることで、倫理的に担保された状態を作り出している。

責任の帰属先が医師であるとどうなるか

実際の医療の現場を引き合いに出す。多くの医療行為の責任の帰属先は医師である。看護師さんに指示を出すのも医師だし、薬を処方するのも医師だ。そのパッケージである医療行為で何らかのトラブルがあった場合、医師が頭を下げることになったり、看護師さん等に指示を出して行っていた業務が、「そんなにミスされるのが怖いなら医師でやってください」となってしまうのだ。医療の現場のみならず、これはどこの業界でも起きている現象かもしれない。上流に責任を帰属させると、業務も上流に”振る”ことになりがちだ。(以降、上流や中流、下流といった言葉を使うが、あくまで業務や研究のフローにおける話で、職種の上下を表現したものではないと付け加えておく)
これはあくまで空想だが、指示を出された側が高い給料をもらっていたり、日ごろから良好なコミュニケーションをとれていれば、このようなことは起きないのだろうか。いや、絶対に起きるよな、と思っている。自分だってそうだから。上流と下流に挟まれた時、そこで自分が踏ん張れる中流はどれだけいるんだ、と思う。
話がそれたが、臨床研究でもそういうことが起きているのだ。
研究の発足者は上流で、中流の医師が下流の医師や他スタッフに指示を飛ばしている形だ。中流以下がそのプロフジェクトに対してどれだけやる気があるかにもよるだろうが、下流がやらない仕事は中流に集中する。リンクに貼ったような欧米の分業制が敷かれていない日本においては、多くの仕事が中流の医師に降りかかるのだ。
おそらく欧米においても、研究の責任は医師に帰属していると愚策する。では、なぜこのように研究を取り巻く状況は異なってしまうのだろうか。

研究に参加する人たちの多くにとって、その業務はボランティアでしかない。でも医師免許を持った誰かがやらなきゃいけない

研究が成功し、論文になったとしよう。欧米においては論文の著者に名前があるかだけでなく、研究に参加していたかどうかもキャリアに役立つ、といった風に思われるが、日本においてはそのような風潮はあまり無いように見える。さらに言えば、論文の業績を多く有していたとしても、それが自分のキャリアを救ってくれるビジョンが、日本ではどうも見えてこない。多くの医師にとって、アカデミアで頑張り続けることは、インカムの点では最適解ではないからだ。
なので、日本の医師の研究参加者の一定数は、ボランティアで参加していると表現しても言い過ぎではない。中流、下流の分業化が進んでいない日本では、その役割は若い医師が担っており、日常業務の合間にデータ収集や整理、研究の倫理申請や各所との調整を完全無給、もしくは薄給で行っているのだ。それはキャリアを救うものではなく、上司へのポイント稼ぎにしかならないと感じながらやっているのだから、辛いものとしか映らず、研究のクオリティはおざなりとなり、「そんなに文句があるなら勝手にやってください」と研究の場から去ってしまう(もしくはそもそも入らない)。仮にエースが頑張ってアカデミアで戦っていったとしても、構造が変わらない限り若手の苦悩は続き、医療業界の研究の質は下がりつづける現状を止めることは出来ないのではないか。

名義貸し+雑務を押し付けらる研究とどう向き合うのか。鍵は自己肯定感?

ひと昔前までは、医療業界は高齢者増加に伴う成長産業だったかもしれないが、今の若手は泥船感をほぼ確実に感じていると思う。かつては目の前のことを愚直にやっていれば、それなりに重用され、幸せな未来を想像できたなら、やりたくない研究の雑務も頑張れたものだ。そのようなバラ色の未来が見えない上、外科系医師にとっては手術のブランクが生じてまで研究に参加する意味とは。耳障りの良い言葉で恐縮だが、「お金が全てではない」という綺麗事に集約されると思う。医師のキャリアは以外と多岐にわたり、イメージしやすい病院勤務医の他開業医や保険医、産業医、製薬会社への就職、そして研究職があると思う。
病院勤務医以外の選択肢が今後狭き門になることを差し引いても、働き方を選べる立場にある中で、何を要素に職場を選ぶかは、「自己肯定感」が最大化されるように振舞いたいというのが自分の結論だ。

市場価値と、自己肯定感とのはざまで

医師免許を始めとする医療系の免許職は、市場価値が時代、土地によっても異なる職種である。今後老人が減れば需要は減るだろうし、医療過疎地においてはかなり高い年俸で契約を結ぶ医師もいるだろう。価値が流動するインフラ職において、自己肯定感を最大化させる働き方を模索するのは大切なことだ。何かを成した、そのような感覚を得るために医療職にとっての研究はあるのかもしれないと最近は感じている。研究を通して醸成される倫理的思考力などが人生を豊かにする可能性もわずかにあるが、一番に得られるものは「なんかやったった感」なんじゃないかと思う。
前半に問題点を提示していながら、ねじりだした研究の価値の結論がこれである。自分の携わった研究が社会を変える一押しになったかも、と布団の中でほくそ笑む。年を取ったときに酒の肴にする。それが今私が思う研究の価値である。
そんな人間でも、研究ガチ勢の人たちの役に立っているならば、ただただありがたいことである。

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