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「後悔がないように今を生きる」親の離婚を経験した小林さんからのメッセージ

親の離婚を経験して大人になった人たちからの、子どもたちへのメッセージ。 第8回目の今日は、小林さんにインタビューしました。

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ウィーズ(以下、ウ):まずは、ご両親が離婚されたときの状況を教えていただけますか?

小林未来(以下、小林):僕が小学校2年生の時に親が離婚しました。
お母さんが家を出て父子家庭になり、3人兄弟だったので、5人家族から4人家族になりました。一番上の兄とは16歳離れています。

ウ:両親が離婚される前の両親の関係性をみていて、小林さんが感じていたことはどんなことでしたか?

小林:母への苛立ちを感じていました。
離婚する前から別居状態で、「母は家に居たくない、でも住む場所もなければお金もない。」という感じで、じゃあどうするかっていったら、他の男の人の家に行って……。

それで当時は小さかったので、一緒に僕も母に連れていかれていました。

ウ:それは小林さんがいくつぐらいのときですか?

小林:幼稚園の頃ですね。

ウ:お母さんと他の男性はどういう出会いで…職場とか、ネットとか色々手段はあると思うんですけど……。

小林:人の繋がりからですね。
紹介だったり……例えば、ママ友とか……。

母はどこでも人に声をかけちゃうっていうのいうのがあって、例えば具体例でいうと、ある店舗で働いてて、そこのお客さんと仲良くなって、その人の家に行く……ということも。コミュ力お化けでした。

ウ:ある意味才能ですよね。

小林:めちゃくちゃ才能だと思います。

ウ:すでにお父さんとお母さんの仲が良くなかったことには、何か理由があったんですか?

小林:まず、父が真面目すぎて頑固でした。
「自分はこうありたい」というのがあって、それを超えてしまうと怒りが爆発しちゃうというような感じで…。

ウ:お父さんがよく怒っていたんですか?

小林:そうですね、お父さんが怒っていました。お母さんが未熟というか、片付けもしないし、掃除もしないし、すぐ嘘をつくし……。それを真面目なお父さんがみていられない…という感じでした。

ウ:なるほど、、それで喧嘩……という流れになるんですね。

小林:そうですね。

ウ:結果として離婚となったとき、小林さんが抱いていた感情はどのようなものでしたか?

小林:母から聞いたのですが、その前からほぼ離婚しているような状況だったので「そうなんだ。離婚したんだー。」くらいな感じでした。なるべくしてなったな、と思いました。

ウ:両親の離婚によって小林さん自身がしんどかったことはどんなことでしたか?

小林:まず、ご飯が美味しくない。ということと、友達に気を遣わせてしまう。ということですね。
『家族で旅行に行ったんだー。』と友達が言っているのを聞くと、僕の家は旅行とかはなかったから羨ましく思いましたし、まわりのみんなの幸せそうな家族の話を聞く中で、社会に対して、不平等さへの妬み嫉みがありました。

ウ:そのしんどさ・辛さはどのくらいまで続きましたか?

小林:高校を卒業するまでは続いていましたね。

ウ:卒業してから変わったというのはどういったことがあったからなのでしょうか?

小林:自分が関わる人が変わったということだと思います。大学に行くまでってランダムで一つの学校という箱に行くので、合う合わないがあるし、学生っていうのもあって親の養護もあったし…高校を卒業してからは、家族のことを含む自分のバックボーンではなく、仕事の内容でコミュニケーションを取るようになったので、それからはまったく辛さやしんどさを感じなくなりました。

ウ:なるほどです…。自分の責任でできることが増えることで、そういうことを感じなくなるのはよくわかります。

ウ:親の離婚を経験された方で、「両親が離婚をする時、『何で離婚するのか?』とか、『ほんとうは一緒にいたい。』とか、そういうことを言えなかった。」という方もいるんですけど、小林さんの場合は両親に対して『言いたかったけど言えなかったこと』はありますか?


小林:言えなかったこと…
『なんでウチってこんなに貧乏なの??』ってことですかね…。言っても仕方ない、言ったからってお金が増えるわけじゃないって小さいながらにわかっていたので。『なんでまわりは幸せそうなのに、僕はなんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。』とかは言いたかったですね。

ゲームとかも買ってもらえなかったし、まわりのみんなからディズニーランドとか行ってきました、みたいな話を聞くと、ディズニーランドなんて行かせてもらえなかったし…そういったところですね。

ウ:お金の部分は大きいですよね……。

小林:そうですね。お金の部分…大きかったですね。
なんで普通の生活をさせてくれないんだろうって思ってました。

ウ:「まわりが当たり前にやっていることができない」っていうのはしんどいですよね。

小林:そうです、しんどいなって思います。

ウ:逆に、今振り返って親が離婚していてよかったなって思うことはありますか?

小林:母と一緒に暮らさなくてよかったなって思っています。

ウ:それは『一緒に暮らしていたら、もっとしんどかっただろうな。』ってことですか?

小林:そうですね。

ウ:お父さんとの暮らしは平穏ではあったんですか?

小林:平穏といえば、平穏でした。でも僕は父自体がコンプレックスだったので…

ウ:それはどういうことですか??

小林:父子家庭ということはお母さんがいないという特別な環境であるし、僕は家族の話に触れられたくないんです…とにかく…。
親が出てくると家族の話になるじゃないですか、、僕の会話の中には親をいれないようにしていたので……
あと父がハゲてた、っていうのもありました(笑)

ウ:まぁ、子どもからすると親や近しい人の見た目って重要ですもんね…。

小林:一番上の兄とは16歳離れていて一回り違うので、父もそれだけ歳をとっているわけなんですよね…。具体例でいうと、野球をやっていたんですけど、運動会とかに親が観にきてくれていたんですよ。すると一個下の後輩の子に肩をたたかれて「おまえのおじいちゃん来てるよ!」って言われて、、『おじいちゃんはいないんだけど、、』と思って、それはお父さんのことだったんですよね。『うわ、俺のお父さんってみんなからみたらおじいちゃんに見えるんだ』と思って。。。老けてるし、禿げてるし…みたいな。

そのくせ父は前に出たがるところがあって、PTAとかリーダーとかを率先してやるような人で、面白くないのにちょけてくるようなところもあって目立ちたがりやだったんです。なので僕のなかで既に恥ずかしい存在であるにもかかわらず、前に出られるともっと恥ずかしい……。だから運動会とか陸上大会とか野球の試合とか『絶対に観にこないで』って言ってました。

今となってはだからなに?なんですけど、心も未熟だったので…。

ウ:お母さんとは、継続的に会っていたんですか?

小林:そうですね、3ヶ月に一回ほどのペースで会っていました。

ウ:自由に連絡をとっていたんですか?

小林:母から連絡がきて会うという感じでした。僕から連絡することはなかったです。

ウ:連絡は直接くるんですか?

小林:そうです、家の電話に「会いましょう」みたいな感じで……。
嫌だったんですけど……。

ウ:お母さんは会いたかったんですね……。

小林:そうみたいですね。

ウ:お兄さん含めて会ってたのですか?

小林:兄は僕が小学生の時にはもう家を出て横浜で寮生活をしていました。
兄が実家に戻ってくるときには親も会いたいからっていうことで会ってました。たとえば催し物があるとき、クリスマスとかですね…。お父さんとは別で会ってました。

ウ:それは高校卒業してからもですか?

小林:そうですね。母とは高校を卒業してからの方が実は頻繁に会っていたんです。なぜかっていうと、僕が母親の方に行ったというのがあって。

ウ:一緒に住んでいたんですか??

小林:……というわけではなくて、僕が高校を卒業するころの母の愛人が家を借りてくれて、そこで一人暮らししていたんです。

ウ:なるほど。

小林:「18歳まではお父さんに面倒を見てもらう」っていう約束だったんですけど、浪人すると決めて家にいる時間が多くなったんです。ひさしぶりに父がお風呂に入る姿をみたら、父の姿はガリガリになっちゃっていて、肋骨が浮き出てて脚も棒のようになってて、背筋も曲がっていて、それがすごく衝撃的で。僕はそれまでずっと野球をやっていて、父とは生活リズムが違っていて家でもあまり会う事がなくて入れ替わりのような感じだったんです。僕が寝ている間に出勤して。

僕が小学校のときの父のイメージは父は柔道をやっていたので良い体してたんですけど……。それに父は夢があって、ずっと整体師になりたいと言っていました。でも僕を育てるために四六時中働いていて、夢を追いかけられなかった。

その二つが重なったとき、僕は自分が父をそうさせてしまったんだなって思って。

もう僕は18歳で大人だし、お母さんが好きとか嫌いとか言ってる場合じゃないな、それよりもお父さんに自由になってほしい、ここまで僕を育ててくれたし、父に自分の好きなように生きてほしい……って思いました。

ちょうどそのときたまたま母の方に一緒に住まないか?っていわれて、母方に移動したんです。それで今まで住んでいた家を出ました。


ウ:それはお父さんは反対されなかったんですか?

小林:めちゃくちゃ反対されました。けど、その反対を押し切って、行きました。そこから母の方に行って母と暮らそう思ったんですけど、当時は母のことがアレルギーすぎて、会うだけでイライラしてしまうみたいな……。

それでやっぱり一緒に暮らせないということで、愛人Bが借りてくれた家に一人暮らしをするということになりました。そのとき母は更生していて、今までずっと仕事していなかったんですけど、リンパマッサージ師の資格をとって、施術をするために家を借りてたんです。その家は部屋が二つあって、一つは施術室で、もう一つの空き部屋を僕が使っていました。

昼間は母が施術の仕事をして、僕は図書館で勉強をして、帰る頃にはもう母はその家にはいない、という感じだったので、実質一人暮らしのような形で僕は過ごしていました。そういう経緯で母親側に行ったので、母とは会う機会が増えました。

ウ:その暮らしはどのくらい続いたんですか?

小林:1年間続きました。僕が浪人していた間は続きました。

ウ:今現在、両親との関係はどうですか?

小林:実は、母が今年の6月に亡くなりました。

命の尊さを痛感するとともに、仲良くしよう仲良くしようって思ってたけど仲良くできなかった悔しさを感じました。親だし、家族だし…やっぱり仲良くしたいじゃないですか。だから母が生きているうちにもっと何かできたんじゃないかなっていうことを思います。

もっと自分の心に余裕があったら違う接し方ができたと思うんです。

母も母はすごくめんどくさい人ではあったけど、めんどくさいながらに僕のことを想ってくれていたし、愛情の表現の仕方が苦手だっただけで、僕のことをやっぱり好きでいてくれて、でもそれを受け取らない自分がいて…もっと大人になれていたらなって…。

でもこの母の死をきっかけに、命の大切さにすごく気づくことができました。やっぱり母に対して生きているうちにできなかったことへの後悔があるので、だからこそ今生きてる人たちをすごく大切にしようと思います。

今お父さんのことめちゃくちゃ大好きだし、兄も大好きだし、それこそ親族は母の死をきっかけに今まで離れ離れだった家族がひとつになったというか…もっとコミュニケーションをとって、みんなで愛を分かち合おうっていう共通認識が生まれました。

僕は母がなくなる前の1週間をたまたま一緒に過ごせたんですけど、ひさしぶりに母のご飯を食べました。やっぱりすごく美味しくて……。ほんとに病弱な中、朝早く起きて、僕のためにおにぎりを作ってくれて……。

これが最後のご飯になってしまったんですけど、ほんとに凝ってるご飯ではなかったけど『梅のおにぎり』を出してくれて、これもやっぱり美味しかったんです。今もコンビニで梅のおにぎりをみると母を思い出します。

ウ:今はお父さんとお兄さんは一緒に住んでいるんですか?

小林:そうです。一緒に暮らして、一緒にいることができて嬉しいって、ほんとに些細なことでも感じられています。

ウ:最後に、今、親の離婚に悩む子どもたちにメッセージをお願いできますか?

小林:そうですね。きっと同じような経験をしている人はいるので、こうして片親育ちの子どもを支援してくれるウィーズのようなところに相談することはすごくいいことだと思います。相談じゃなくて愚痴でもいいんですよね。言葉にして言うだけでもやっぱりスッキリすると思うので…1人で抱え込まないようにして欲しいなって思います。あとは、何か熱中できる物を探すといいと思います。僕は運動や野球に熱中しました。

ウ:1人で抱え込まず、誰かに愚痴でもいいから話してみるということ。
熱中できるものを探すということ。どちらもすごく大切なことだと思います。ありがとうございました!









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