火曜正午

 長かった夏休みが終わり、講義はレジュメだけ渡されてすぐ学校祭準備期間に入る。漫研は部誌を出すということで話がまとまっていたけれど、印刷の関係もあって夏休み中にもう原稿は完成しているので、印刷された部誌を受け取る以上のやるべきことはこれ以上特にない。
 なので僕に限らず部員はいつも通り部室に集まってまったりしていた。夏休み中と何も変わらない、クーラーが寒いくらい効いた部屋で漫画を読んだり、ソシャゲをやったり、お菓子を食べたりするだけだ。
 赤羽さんも来ませんか、と聞くと五限の前に寄ると言ってくれたので、今は赤羽さんが来るのを待っている。あんなにいた部員は学食に行ったみたいで、僕は部室に一人残ってしまった。
 数少ない廊下の足音に一々耳を澄ませて、赤羽さんかどうかを確認する。いつもサンダルを履いているので赤羽さんの足音はわかりやすい。気配を感じる度に赤羽さんかと喜んで、そうでないと気付いたら落胆しながら漫画に戻る。主人の帰りを待つ犬みたいだ。でも赤羽さんのことで一喜一憂できるのは嬉しい。早く来ないかな。
「おーっす!」
 大きな音を立てて勢いよくドアが開けられる。
「あ? ンだよ神谷しかいねーじゃん」
「お久しぶりです、福田先輩」
「お前しかいねーの? つまんねー!」
 やたらと大きな声で話しながらずかずか部室に入ってきたのは福田先輩だった。確か四年生だったと思う、声が大きいし強引なので僕は苦手だ。せめて吉田がいればよかったのに。
「相変わらずオタクみてーな部室だな、お前こんなとこいたら彼女もできないんじゃね?」
「はは……」
 僕には赤羽さんがいるから彼女なんかいらないんですよ、と言うわけにもいかず、適当な愛想笑いで返す。こんな時に限って廊下から聞こえてくるのは他の誰でもない赤羽さんの足音だ、ああ今は来ない方がいいですよと念じたところで届くはずもなく、静かにドアが開いて赤羽さんが顔を覗かせる。
「お、あ、こんにちはー……」
「……こんにちは」
 前髪や服を忙しなく整えながら挨拶をした福田先輩に短く挨拶を返す。そういえば二人、面識がなかったかもしれない。おい神谷あれ誰だよ、と福田先輩が小声で僕に聞いてくる。もしかして先輩も赤羽さんのことが気になりますか? だってかっこいいですもんね。なんて、そんなことないだろうけれど冗談でも考えないとやってられない。
「赤羽さんです、僕と同じ二年生の」
 赤羽さんは自分の名前を呼ばれたことで本から顔を上げ、特に興味はなさそうに眠そうな目で先輩を見ると、何も言わずに頷くようなお辞儀をした。
「この人は福田先輩です」
「っす、どうも」
 赤羽さんが何も言わず二、三回瞬きをする間、エアコンの音しか聞こえないくらい静かだった。こうも気まずい空気が流れていると打開したくて仕方がなくなってしまう。
「え、てか大人しくね? 人見知り? 大丈夫?」
 先輩が気を遣っているのかどうかはわからないけれど赤羽さんに話しかけにいく。やっぱり陽キャはコミュ力が桁違いだよなあと思いつつ、本当に人見知りの赤羽さんが不快になっていないかな……と様子を確認する。
「大丈夫です、ありがとうございます」
 両方の口角を上げる最小限の笑顔で赤羽さんが返す。やっぱり大丈夫じゃなさそうだ、先輩がノリ悪くね? やらなんやら小声で言ってくるのを愛想笑いで受け流す。赤羽さん早く出て行った方がいいですよ、気付いてください……でも気にしていないのかどうでもいいのか、相変わらず隅っこの方で本のページをめくっている。
 それ以上の会話の発展は見込めないとわかった先輩が何度も首を傾げながら僕の方に向き直った。ああ、部員の皆さん早く部室に戻ってきてくれないかな。
「てかお前あれ見てる? 京都卍アベンジャーズ! あれ見てたら久しぶりに喧嘩したくなってきたわー、おい神谷喧嘩しようぜ」
 突然話題を変えてもらえて助かった。赤羽さんにお手数をおかけするわけにはいかないので、僕に矛先が向かってくれた方がありがたい。赤羽さんが嫌な思いをするくらいなら僕が盾になった方が絶対にいい。
「喧嘩ですか? いや僕は大丈夫です……」
「何言ってんだよお前男ならやろうぜって」
 先輩がそう言って僕の胸の辺りを小突いたので、軽くむせてしまった。落ち着くにつれ赤羽さんの視線を感じる。怒っているのだろうか? 確かに先輩はちょっとしつこいけれど、赤羽さんが怒るようなことでもない気がするのに。
「おいそんな強くやってねーだろー! 本気でやろうぜ神谷ぁ」
「いや、うっ痛、えへへ駄目ですよ喧嘩は」
 空気が嫌になったのか赤羽さんが立ち上がり本をしまった。よかった、これでこれ以上不快な思いをせずに済んでくれる……と思ったのに、僕の方に向かってくる裸足の足裏が畳を踏みしめる音が聞こえる。
「わたしとやりませんか、先輩」
 本当に自然に、ごく当たり前のように、赤羽さんの半身が僕と先輩の間にするっと入ってくる。小首をかしげて、明るく楽しそうな声だった。
「っえ? いや女の子とは、ねえ、そんなんしないって」
「ふうん、負けるのが怖いからですか?」
「あ、赤羽さん?」
 先輩は動揺して僕と赤羽さんを交互に見る。僕にもよくわからないけれど、赤羽さんが少しいらついているのだけはわかる。
「何でそんなに怒るんだよ、何? もしかして神谷のこと好きとか?」
「だったら何だ? 悪いんか?」
 からかう口調だった先輩が面食らって動揺している。赤羽さんの笑顔は崩れることもなく、あちらこちらに視線を泳がせる先輩のことをじっと見つめ続けている。
「好きだから神谷の代わりに戦うんだって。早く構えろよ雑魚」
「お前先輩には敬語使えよ」
 先輩が小声で呟く。ど、どうしたらいいんだろう、こういう時って。なんで赤羽さんが怒ってるんだろう。……もしかして僕が小突かれたから? 赤羽さんが僕のために立ち上がった? どうしよう、凄く嬉しい。凄く嬉しいけれど喧嘩は止めないと!
「使うわけねえだろ馬鹿が。先輩ぶりてえなら勝ってから言えや」
「は? っべー完全にキレたわ。女だからって容赦しねーから。泣いてもお前知んねーかんな!」
「赤羽さ――」
 先輩のこぶしが赤羽さんの左肩に当たり鈍い音を立てるものの、赤羽さんが表情を変えることはない。脱力したまま先輩をじっと見つめている。何の反応も示さず攻撃を受けたことに先輩は一瞬首を傾げ、ファイティングポーズを取り直した。
「お、こ、降参するなら今のうちだぜ!」
 赤羽さんの返事はなかった。その代わり先輩の前髪を素早く鷲掴みにし、地面に向かって引っ張る。
「ちょ! タンマ! ルール違反だろ、ルール――」
「待ったなんかねえよボケが。何がルール違反だ、スポーツじゃねえんだぞ」
 逃げようとして足をばたばたさせたり身を捩ったりする先輩を強制的に座らせると、右の爪先を素早く鳩尾にめり込ませる。一瞬動きの止まった先輩が体を丸め、小刻みに震えた。
「おい終わりか? イキリ野郎」
「っ……な、わけ……ぅ、ッ……ぐう……」
「大したことねえイキリカスが……でもまだ終わりじゃねえよな? 『女だからって容赦しねー』んだよな? 早く立てや」
「うっ……待っ……待てって……」
 ゴミが、と吐き捨てるように言い残し、赤羽さんが出て行こうとする。僕もつられて荷物を持ち慌てて後を追いかけ、一緒に喫煙所まで来た。駐輪場から一番近い駐輪場なのに、いつ来ても人がいない。
「胸見せて」
「え、えっ」
「いや動揺することでは……痕になってないか確かめさせて」
「あ、そういう……」
 言われた通り自分で服をまくり上げて小突かれた辺りを見せる。外でこんなことをするなんて、悪いことではないはずなのに心臓がどきどきして仕方がない。赤羽さんに胸をじっくり見られているだけで肌の温度が上がっていく気がする、海の時とはまた違う風が肌を撫でて、赤羽さんの視線がねっとり絡んで……吐く息が震える。
「大丈夫そうだね。よかった」
 赤羽さんの指先が胸の中心を優しくなぞる。くすぐったいだけじゃない。触られたところが熱くなって、ぞくぞくして、このぞくぞくを鎮めてもらいたい、治めるために触ってもらいたくなる。
「もう下ろしていいよ」
 赤羽さんの言葉でやっと意識が現実に戻ってきた。急いでまくっていた服の裾を下ろして整える。
「あ、赤羽さんこそ平気ですか」
「全然平気、ほら」
 半袖Tシャツの袖がまくられて白い肩が露になる。確かに痣一つない綺麗な肌で、ゆっくり動かすと脂肪の下に確かに存在する筋肉の陰影が見え隠れした。それから煙草に火をつけ、ゆっくり煙を吐く。
 さっきまでの騒ぎが嘘のように静かで穏やかな午後だった。穏やかな、と言うには太陽があんまりにも暑すぎるけれど、それでも長閑だった。遠くで蝉の鳴く声が聞こえてきて、突き抜けるような青空は九月も後半になったのにまだ夏の顔をしている。
「あいつあんまり強くなかったね」
「そうなんですか?」
「自分から喧嘩吹っ掛けてきた割には。あれで懲りてくれるといいけど」
「かなり痛そうでしたからね……でも赤羽さんが煽ったときはひやっとしましたよ」
「そう? 負けると思った?」
「いえ、僕の大事なご主人様ですから」
 自分で言っていて顔が熱くなってくる。赤羽さんが次の言葉を促すように僕のことを見るのも、更に恥ずかしさを増強させた。
「その……ご主人様が傷付くのは、嫌なので」
 ふふ、あはは、と赤羽さんが大きな声で嬉しそうに笑う。
「でもわたしだってね、自分の所有物がわたし以外の手によって傷付けられるのは嫌なんだよ。わかるかい? はるちゃん」
「え、あ」
「はるちゃんをいじめていいのはわたしだけなんだよ」
 顎の下を人差し指で撫でながら囁くように言われると、それだけで体の内側を電気がびりびり通り過ぎていったようになって、全身を喜びが満たしていった。
「わ……わん! わんっ」
 嬉しすぎてつい鳴いてしまう。赤羽さんが嬉しそうにつま先立ちで僕の頭をわしゃわしゃと撫でると、僕はもう小突かれたことも喧嘩になりそうではらはらしていたことも忘れ、赤羽さんに頭を撫でてもらえた喜びだけでいっぱいになっていた。

 あれから一晩経ったけれど、先輩に小突かれた場所は痣にもならず、かなりほっとした気持ちで学校に来られた。赤羽さんに痕を残してもらうならまだしも、全然関係ない先輩にされたって別に嬉しくないから。
 今日も赤羽さんが部室に来てくれるらしい。外で遊んだり赤羽さんちに行ったりすることも考えたけれど、別に二人きりでなくたって一緒にいるのは楽しいから、何だっていいのだ。それにもしも昨日ので懲りてくれていたら、福田先輩が来ることもないだろうし。
 部室は電気がついていて、ノックをすると吉田が出てきた。どうやら今日は吉田一人だけみたいだ。やっぱり福田先輩はいない、よかった。
「おー神谷……」
 ドアを閉めたばかりの僕に吉田が近付いてくる。神妙な顔だ、何かあったんだろうか?
「神谷お前、赤羽と付き合ってるって本当か?」
 吉田の言葉に体がこわばるのを感じる。先端から少しずつ余計な力が入りすぎて、動かせなくなっていく。
 別に付き合っていると思われるのが嫌なわけじゃない、それだけは神に誓って本当だ。嫌なのは、僕なんかが赤羽さんと付き合っているなんていう恐れ多い話が出回っていること、それから中学生時代を思い出してしまうことだ。
 中学生時代、凄く仲が良かった友達がいた。彼は最終的に不登校になって転校してしまったけれど、転校するまでずっと僕がプリントを彼の家に届けたり、放課後は毎日入り浸って遊んだりしていた。
 別にそういう仲だったわけじゃない。ただ一緒にゲームをしたり、漫画を読んだり、普通に遊んで普通に解散する仲だっただけだ。でも誰かがそれをからかったのをきっかけに、僕は何度否定しようと何度説明しようと、ずっとそういう噂が消えることはなかった。
「なん――えっ……と、どこからその話が……」
「四年の……何先輩だっけ、昨日いた、なんか金パのヤンキーみたいな人で」
 福田先輩だ。漫研で金髪の人なんて福田先輩しかいない。でもどうしてそんな話が出て来たんだろう、事実無根なのに。
「そうそう福田先輩、あの人青山のことずっと狙っててうるせーんだよな、紹介しろ紹介しろって」
「そう……なんですね。とにかく僕は別に赤羽さんとは付き合ってませんから、僕はただの赤羽さんのマゾです」
「え、あ、あっそう」
「なんで動揺するんですか! 知ってると思ってましたよ」
「いや改めて言われるとこう……マジでSMやってんだなって……」
 どういうことですか、と冗談っぽく聞き返すと吉田は笑ってくれた。また中学校の頃みたいになるんじゃないかと不安が詰まっていた胸が少し楽になり、じゃあそういうことでなんか言われたら上手い感じに訂正しておくよ、と言われたのが何よりも救いだった。そうだ、あの頃と違って周りにいるのはみんな大人なんだ。
「吉田だけですか? その話知ってるの」
「や、帰り際だったからあいつの顔見た、何だっけ川西? こないだの」
 あ、一年生の川西さん。赤羽さんが可愛がっている後輩だ。赤羽さんが大好きって言ってたけれど、大丈夫だろうか?
「ぼ、僕弁解しに行った方がいいんですかね」
「いやどうなんだ? 別にいいんじゃないか? 学祭準備期間だし、そこまで広まってないだろ。広まってても興味ないだろうし」
「他の誰に知られたってどうでもいいですけれど、彼、赤羽さんのことが大好きなんでしょう。気にしてるんじゃないですか」
 そうだっけ……と困惑気味に吉田が返す。噂をすれば何とやら、部室のドアがノックされ、開けると川西さんが以前のような爽やかな笑顔で立っていた。
「こんにちは、先輩方。川西です」
「あ……ちょうど川西さんの話をしていたんですけれど」
「赤羽先輩はいらっしゃいますか?」
「赤羽さんなら後ろに……」
「怪談はもうするなよ」
 あんまりにもタイミングが良すぎる。赤羽さんは今日も眠そうで、両手をポケットに突っ込んでちょっと斜めに立っていた。
「先輩。赤羽先輩って神谷先輩とお付き合いなさっているんですか」
 赤羽さんが心底どうでもよさそうな顔で小首をかしげる。そうですよね、そういう反応になりますよね。
 とりあえず中に入れ、という赤羽さんの言葉で川西さんが部室に上がってくる。赤羽さんはドアと鍵をしっかり閉め、四人で円になって座った。
「まず誰がそんなこと言い出したんだ?」
「福田先輩です、ほら昨日いたじゃないですか」
「先輩の元彼ですか?」
「違うって、落ち着けよ」
 赤羽さんは煙草を取り出すためポケットに手を入れかけ、部室だったことを思い出したのか、誤魔化すように水筒に手を伸ばした。
「昨日ボコった雑魚でしょ。ブリーチ一回だけやったようなダサ金パの」
「ボ……は⁉」
 吉田の反応は正しい。福田先輩は髪を染めているから、僕らの中では漫研でも陽キャの部類という認識なのだ。
「昨日福田先輩が喧嘩しようって言い出して……それで赤羽さんが煽って」
「ちゃんと勝ったし、あっちが先に手出してきてからやり返したから正当防衛でいいだろ」
「何ですかそれ? 僕の赤羽先輩がその辺のよくわからない有象無象の男に殴られたんですか?」
「やりたいって言うから」
 何の傷にもなってないよ、と赤羽さんが昨日のように袖をまくって肩を見せる。昨日までは何もなかったところに黄色くて円い痣がぽつっとできていて、僕たち三人の視線はそこに集中した。
「なってるじゃないですか、痣に!」
 川西さんが悲鳴のような声で言う。それ以上言及される前にそそくさと隠し、多少気まずそうに目を逸らす赤羽さんの姿、初めて見たかもしれない。
「この程度どうってことないってうるせえな……それよりそいつが負けた腹いせにありもしない噂バラまいてたってこと?」
「多分そういうことになるな」
「じゃあ本当にお付き合いはしていないんですね?」
「しつこい。付き合ってないよ」
「証明してください。本当にお付き合いをしていないなら、今すぐ僕にキスできますよね」
 部室内の空気の温度が下がったような気がした。赤羽さんがじっと川西さんを見つめ、彼がたじろぐ。関係ないはずの僕も思わず姿勢を正し、でも赤羽さんと目を合わせられる気がせず、恐怖を閉じ込めるように両膝の上で握りしめた拳に視線を落とした。

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嫌いじゃないですよ、あなたみたいなマゾ。