月曜午後三時

 何度も彼女のことを夢に見る。何度も彼女の声を思い出す。片頬で微笑む姿、眠そうなのに鋭い目で射貫くように見つめる顔、柔らかく褒める低い声。魔法のように快楽をもたらす指先、絡めた舌と唇の柔らかさ。近付いた時にだけ感じられるバニラと白檀の重い香り。
 何度でも思い出す。何度でも気持ちよくなれる。あの夏の日は夢だったのだろうか? いや、違う。紛れもない現実で、この身体に深く刻み込まれている。刻み込まれた身体は自分で慰めるだけでは満足もできなくなり、気付けば彼女の名前を何度も呼んでいる。
 赤羽先輩。赤羽月子先輩。僕の女神様。彼女に会えないこの夏休みの間中ずっと息が苦しくて、まるでこの世に生きていないような気分だった。胸は常に締め付けられ続け、彼女に恋い焦がれ続けた体は真夏の太陽よりも熱く燃え尽きてしまいそうだった。
 僕は先輩の連絡先を知らなかった。あの時、彼女の去り際に何としてでも聞いておくべきだったのに、先輩はかぐや姫が月に帰る時のように素早く、僕の手が届かない距離の場所へ行ってしまった。手元には何の思い出も残っておらず、あるものといえばあの数時間の思い出と、彼女が触れたこの貞操帯の鍵だけだ。
 あの日以降自分で慰めるようなことはしなかった。鍵はあるのにメンテナンスのため時々入浴時に開錠する以外では使わなかった。いや、一度鍵をしゃぶりながら狂ったように後ろで遊んだことはある。しかしやはり満足はできず、より一層渇きが強まっただけだった。
 ああ、赤羽先輩。あなたは今どちらにいらっしゃるのですか。その雲の合間からもう一度顔を覗かせて、僕を照らしてはくれませんか。次にお会いした際にはあなたにこの鍵を献上したい。あなたに僕の淫らな体も思考も管理していただきたいのです。この身体はもう、あなたのことを満足させる玩具として捧げてしまいたいのです。
 今日も長い夜が明ける。夜明けが嬉しくないことはない、何度も夜が明けることで夏休みが終わり、赤羽先輩に会える確率が上がるから。でも夜の間見えていた月が朝日の頃には姿を消してしまうのが嫌だ。赤羽先輩がいなくなった後の部室を思い出すから。
 茶道は人生に必要がない。茶道なんてただのお遊びだ、いい加減やめて勉強に集中しなさい。茶道に現を抜かしてこんなに偏差値の低い大学に入ったのだから、これ以上失望させるな。父は何度も繰り返しそう言って毎朝仕事に出る。
 確かに最初はただ今は亡き祖母を喜ばせたい一心でのお稽古だったけれど、今はすっかり夢中になっている。藺草の匂いで満ちた静かな部屋で正座をして盆上の茶器に向き合う時間、伝統と形式に満ちた上品な世界は、父のように仕事ばかりで子供に向き合うこともできない人間にはわからない安息がある。
 赤羽先輩、僕はあなたとの練習のお陰でお免状をいただけました。先輩なら僕を褒めてくれますか? あなたのいい子でいさせてくれませんか? どうかその低い素敵な声で僕を褒めて、身も心も蕩けてしまいそうな口づけをお恵みいただけませんか?
 朝の電車内でも、大学の最寄り駅でも、先輩の姿を見かけることはない。部室棟の二階でも、三階の水道のところにある窓から駐輪場を見下ろしても、先輩はいない。あの時確かに漫研の集まりがあるからと言って去っていったのだから、たった一つ下の階にある部室に先輩が通っているはずなのに、一度も先輩の姿を見たことがない。講義室の前を通っても先輩はいない。
 本当にあの夏の日は幻だったのかもしれない、先輩は現実逃避のために僕が作り出した幻覚で、本当はどこにも存在していないのかもしれない。何度も否定するのに、何度もその考えが浮かんでくる。いや、確かにあの時キスをした唇は本物だった。僕の手を握ってくださった右手の熱さは本物だった。
 もしかして人文学部の人ではないのだろうか。農学部や工学部だったら、違うキャンパスに行かなければ先輩を見付けることはできない。ああ、大学ってどうしてこんなに広いんだろう。
 悲しい気持ちを引きずったまま歩き回っているともう最後の講義の時間になってしまった。夏休み明け一番最初の講義だから絶対に出ないと。先輩探しは諦め、仕方なくB棟の広い講義室へ向かう。結構時間ギリギリに入ると、ちょうど真ん中くらいに何だか見覚えのあるような背中が見えた。三人掛けの机に一人で座っていたので、空いている席側の通路を駆け下りて隣に座る。
「赤羽先輩」
 小さな声で話しかけるとゆっくりと僕の方を向いた。その瞬間世界の全ての音が遠ざかり、何もかもがスローモーションになり、嗅いだ覚えのある甘く重い香りが漂ってきて、ああ間違いない。僕の女神様だ。
 先輩は僕を見ても表情一つ変えず、名前はわからないけれど見覚えはあるもののことを思い出すときの声で「ああ……」と言った。その声があまりにも痛く突き刺さってしまい、急いで隣に座った。
「え、もしかして忘れられてしまいましたか」
「川西さんでしょう、わかりますよ」
 正面を向き囁く赤羽先輩はやっぱりいい声で、ゼミや同じ学科の他の女性とは比べ物にならないほど低くて素敵な響きを持っている。
 先輩、僕はずっとあなたのことを考えていたんです。あなたに会いたくて仕方がなかったんです。あなたに恋い焦がれ、あなたの夢ばかりを見、あなたのお足元に首を垂れる日を何よりも待ち望んでいたんです。そんなことを言う前に講義の開始を告げるチャイムが鳴り、真面目に前を向く先輩を邪魔しないよう僕も姿勢を正す。
 シラバスを眺めながら時々先輩のことを横目に見る。現実の先輩だ、夢でも幻でもない、先輩はこの世に存在していて、こんなに近くに座っている。これほどの幸福が今までの人生で果たして何度あっただろうか? 一度もなかったのではないか? 先輩が講義を受ける態度は凄く真面目……というわけではなく、何度か舟を漕いだり、前に座っている人をスケッチしたり、前の人の背中に隠れて見つからないようにスマホを見たりしている。
 でもそうして不真面目に講義を受ける先輩の一挙手一投足が愛おしくて、できることなら前など向かずにずっと先輩のことだけを視界に入れていたい。次回から一つ後ろの席に座ることも考えたけれど、そのせいで先輩の隣に僕以外の誰かが座るのは嫌だから、絶対に隣を死守しよう。
そうして先輩のお傍にいられる幸福を噛みしめている間に講義は終わりを迎え、チャイムが鳴るよりも先に荷物をまとめていた先輩はリュックを背負うとすぐに立ち上がった。
「赤羽先輩?」
 声をかけても先輩は立ち止まらず、それどころか一度も振り返らずにどんどん講義室の後ろへと人波の合間を器用に縫っていく。僕も追いかけようと慌てて出入口までの緩やかな階段を駆け上がっていくと、行く手に同じゼミの同期数人が道を塞いだ。
「川西くんじゃん。ねー川西くんもこの講義取るの?」
「う、うん、取ろうかなと思ってるとこ」
「じゃあ次うちらと一緒に座ろうよ、今日遅れたから座る場所なかったでしょ。来週は取っといてあげるから」
「ありがとう、でも大丈夫だから」
 急いでるから行くね、と振り切るように真ん中を通り講義室を出る。早くしないと、早く追いかけないと先輩を見逃してしまう、どこに……視界の端で黒い塊が動いた。先輩だ、間違いない。全身真っ黒の赤羽先輩。暑くないんですか? でも黒がとても似合っていて素敵です。ああ待ってください、先輩。お願いです。もう一度僕のことを見下してください。
「先輩!」
 何度呼びかけても先輩は止まってくれない。かなりの早歩きで部室棟を通り、階段から駐輪場の端っこにある喫煙所まで一直線に駆け抜け、仕切りの後ろにするりと入っていく。
「赤羽先輩!」
 喫煙所の仕切りの向こうには赤羽先輩以外には誰もおらず、僕が大きい声を出したせいか、先輩は反対側の出入り口付近で眉間にしわを寄せて、肩で息をしながらしゃがみ込んでいた。
「あ……ごめんなさい、大きな声を出して……」
「何で追ってくるんですか」
「だって先輩が逃げるから」
「気まずいんですよ」
 息を整えた赤羽先輩がポケットを探りケースから煙草を探し当てる。僕は慌てて手を差し出して一緒に取りだしたマッチを受け取り、何度も火をつけようとしたけれど上手くいかない。火花は散るのに一向に発火せず、焦る僕を見かねたのか先輩があの熱い手で僕の手からマッチを取り返した。
「親指と中指でつまんで、人差し指でお尻の方を支えて、斜め前に向かって強く一気に擦り下ろす」
 カッ、と軽く乾いた音の後に音を立てながら大きな火がともる。
「ね」
 あの日キスをした時と同じような顔で煙草の先に火を近付ける。先輩が喫煙者だというのは初めて知ったし、身の回りには一人もいなかったから新鮮だった。親指と中指で煙草をつまんで吸う姿が素敵だ。吐き出した一口目の煙でマッチの火を消す仕草も格好いい。
 その煙を僕の顔に吹きかけてくれたらどんなにいいだろうか、と思うと体が自然と正座になり、デニムに土がついたり小石が足に食い込んだりすることも、先輩のためなら何時間だって耐えられる気がする。
「……その、ごめんなさい。夏休みのこと」
「えっ、どうして謝るんですか。僕は先輩に出会えて嬉しかったです、あなたは運命の人だと思うんです、先輩のことが好きなんです。僕はあなたに恋をしています」
「そんな正面切って言うこと? いや同意もないのにあんなことをして、自暴自棄になっていたとはいえ犯罪だなと思って」
「先輩は素敵ですよ」
「答えになってねえよ」
 敬語じゃない今の言葉が先輩の普段の喋り方なんだろうか。雑にあしらわれたことにさえきゅんと胸が締め付けられて、顔が熱くって仕方がない。先輩は敬語ではなくなってしまったことが恥ずかしいのか目を逸らして気まずそうに煙草を吸っているけれど、先輩が楽だと思う姿勢でいてほしい。
「僕は先輩に出会えて嬉しかったです。心の底からそう思っています。それが答えじゃないですか? 僕は嫌だとも暴力だったとも思っていませんよ。先輩になら暴力を振るわれたって構いませんし」
「厄介な奴……」
 先輩は相変わらず眉間にしわを寄せて、心底呆れたような声でそう言った。初めて出会った頃にはミステリアスで褒めるのが上手い素敵な人だと思っていたけれど、何の臆面もなしにさらっと褒めたり、こうして僕を目の前にして嫌な気持ちを包み隠さず言えてしまうあたり、もしかしたら凄く素直な人なのかもしれない。
 でもその素直さだって魅力的だ。本音を隠して嘘をついて、人間関係を上手くやっていこうと無理をする人よりもずっといい。声を作ってさりげないボディタッチでアピールしてくる同じゼミの女性たちよりも、よほど対等に扱われているような気がする。
「とりあえず立ってくださいよ、服が汚れるし」
「じゃあ先輩も、しゃがんでいたら疲れるでしょう。一緒に座ってください」
 先輩は何も言わずに立ち上がる。灰皿の近くに太いポールのベンチがあるので、僕たちはそこに落ち着いたけれど、身長の高い僕が先輩を見下ろすというのはあんまり落ち着かなかった。僕にとっての先輩は、足元から見上げたい人だから。
「この前調べたんです。こういうタイプのベンチ、ヒップバーっていうんですって」
 突然何の脈絡もなく先輩がそんなことを言い出した。
「そうなんですね。確かに棒ですし、並んで座るとバーみたいですもんね。ダブルミーニングだ」
 返事にしては長々と余計なことを喋りすぎたか、と思って先輩の方を見た。先輩も同じようなことを思っているような顔で僕を見ていた。そうして数秒見つめ合っていると先輩がふっと表情を和らげたので、僕もつられて笑顔になる。
「先輩のそういうところも好きです」
「ど、どういう」
「沢山お話してくれるところ。今日初めて知りましたけれど」
 そうかな、と言いながら薬指で煙草を弾き、灰皿に灰を落とす。先輩の煙は甘い匂いがして、他のどこでも嗅いだことがなかった。今まで煙草のことはあまり好きではなかったけれど、先輩が吸うから好きになってしまう気がする。
「でもその辺の人にとってはどうでもいいじゃないですか、ベンチの名前とか、マッチのつけ方とか。何の脈絡もないし」
「僕は知りたいですよ。先輩の煙草の銘柄も、お茶の美味しい点て方も」
 かなり短くなった煙草を二人で見つめる。煙草の匂いと香水の匂いが混ざり合って、先輩だけの匂いになる。他のどこでも嗅げない匂いで、それがたまらなく嬉しい。
 もっと近づきたいけれど、先輩は距離を取っていたい人のようで、少し距離を縮めるとさりげなく向こうに寄ってしまう。このまま距離を縮め続けて先輩が落ちてしまっては困るのでこのまま座り続ける。でもいいんだ、同じ空間にいられるだけで。お傍にいられるだけで嬉しいから。
「そう言ってもらえるのは凄く嬉しいよ」
 相当に含みのある言い方だった。初めて見た時から目の色に深みがある、少し疲れていそうな人だとは思っていたけれど、きっとこの近付いては離れていくような、誰かに共感できるほどの経験をしたのに表には出さないようなところにその理由があるんだろう。僕はそれを知ることができるのだろうか、先輩が僕を理解するのと同じようなレベルで、先輩のことを理解できるのだろうか。
「あのさ、川西」
「はいっ」
 呼び捨てにされたのが嬉しいと思った気持ちをそのまま声に乗せたので、あまりにも大きな声が出てしまった。
「お前さあ、別にわたしのこと好きじゃないよ」
「えっ……」
 視界がモノクロになっていく。僕が先輩のことを好きじゃない? 何故? こんなに先輩のことを考えて、長い期間先輩を求め続けて、ようやく会えてこんなに嬉しかったのに?
「人間メスイキさせてくれた相手のことを好きになるようにできてんの、だからお前はメスイキで錯覚しただけだよ、それは恋愛感情じゃない」
「そんなの嘘です、僕はこんなに先輩のことを好きなのに。僕、夏休み中ずっと貞操帯のままで過ごしました。先輩に鍵を預かってもらいたいとずっと思っていたんです。先輩に管理されたい、この身体を先輩に捧げてしまいたい。先輩のことが好きです。先輩は運命なんです」
「川西」
 三白眼で僕を見つめる先輩の口からは、ため息のような煙が細く流れ出ていく。アンニュイな先輩も魅力的。こうして話しているだけでも好意は増していくばかりだ。
「お前が恋をしているのはちんぽ? それとも脳?」
「え」
 先輩の問いかけに一瞬思考が止まる。僕が恋をしているのは性器? それとも脳?先輩はまたため息のように煙を吐く。
「無料で気軽に風俗扱いできるから絆したいだけだけだろうが、思ってもないこと言うな」
「そんなことないです!」
「信じられるかよ」
 あまりにも疲れ切った、まるで魂を半分もどこかに落としてしまったような生気のない声だった。それだけなのに、さっき暴力を振るわれたっていいと言ったけれど、確かに頭をがつんと殴られたような衝撃だった。僕はどこで先輩を好きなんだろう。理性? それともただの性? 今までそんなことを問われたことなんかなかった。
「……ごめん、八つ当たりだった。本当にごめん」
「いいんですよ。さっき言ったでしょう、僕は先輩になら暴力を振るわれたっていいんです」
「良くない……」
 夏休みの間に僕を甘やかしてくれた、強くて優しい先輩。今こうして目の前で想像以上にか弱く小さく見える先輩。どっちが本当の先輩なんだろう。どっちも本当なのだろうか。
 短くなった煙草が灰皿に押し付けられて消える。まだ赤く燃えたままの欠片が暗闇に落ちていくのが綺麗だ。先輩が咥えていた煙草の吸殻さえも愛おしい、持ち帰りたいと思ったけれど、今それを口に出すのは違う。でもそう思えるくらいには先輩のことが好きだ、それだけは確実だ。
「とにかく今はお前のことが好きじゃない。運命なんか信じたこともない。お前にただ性欲を向けられているようにしか思えないし、わたしはお前の体なんか欲しくないよ」
 否定はできなかった。自分の行動を鑑みても、そう思われても仕方のない態度ばかり取っていた。夏休みのことがあまりにも美しい思い出すぎて焦りすぎた。先輩に嫌われたいわけじゃない。先輩と仲良くしたい。先輩に可愛がられたい。先輩の声を間近で聞いて、先輩に愛を囁いて、そうだ、お茶会にだって来てもらいたい。お免状のこともすっかり忘れていた。
 あんまりにも愚かだ。こんなに先輩のことが大好きなのに、伝えるべきことを伝えなかったし、伝えなくてもいいことばかりが口に出て、確かに先輩は銃口のように僕の性器を向けられてさぞ不快だっただろう。
 僕の体なんか欲しくない。欲しいのは僕の体じゃない。体以上のものを捧げなければいけない、でもどうやって……いや、そんなこと考える必要もない。だってあの日先輩は僕のお茶を嬉しそうに飲んだのだから。
「ごめんなさい。僕が先走りすぎました」
「わかったんなら落ち着いて……」
「だから先輩、今から僕とデートしましょう」
「は?」
 眉間にしわを寄せて口を半開きにした先輩もセクシーで素敵だ。いや、そうじゃない。とにかく僕は先輩からの信用と信頼が欲しい。僕が信頼に足る人間で、性欲ばかりを向けているわけではないと先輩に知ってもらいたい。
「先輩を苦しめてしまうなら、もう好きだとは言いません。運命だとも言いません。僕は先輩に本気だと証明したいんです」
「聞いてた? 人の話」
「聞いていました。それを聞いてなお先輩のお傍にいたいんです。先輩にこの身も心も、何もかも捧げてしまいたい。それに先輩は僕のファーストキスの相手ですから、責任を取ってもらいたいですし」
 厄介な奴、と言いたそうな顔をしていた。でもそんな先輩のことも愛しいとしか思えなかった。
「自分からキスをせがんできたくせに……」
「そうでもしないと先輩との縁が完全に切れてしまう気がして、でも勘が当たっていてよかったです。僕、頑張りますから。だから先輩、デートさせてください」
 は? と聞き返すような、ため息に声を乗せたような、そんな長い返事だった。心底怠そうだった。でも先輩はそれ以上何も言わずに立ち上がり、僕が動き出してエスコートするのを待つようにこちらを見た。

 僕たちは調布で降りてから多摩川に突き当たるまで話しながら歩き、じゃんけんで僕が勝ったら上流、負けたら下流に向けて歩こうという賭けに僕は負け、流れに沿って歩き始めた。じゃんけんでさえ先輩に負けることが嬉しかった。
 歩いていると先輩はかなり饒舌になった。時々お疲れではないかと思って先輩の顔を覗き込んでみても先輩は全く疲れた様子を見せず、僕にたくさんの話をしてくれた。本当に多様な話だった。星やお花を眺めながら煙草を吸うのが好きなこと、SMに出会った日のこと、今まで好きだった人のこと。
 過去に好きだった人の話のはずなのに、まるで今現在も一緒にいるかのように嬉しそうに、愛情を一切隠さずに話をするので、聞いているだけなのに段々嫉妬が止まらなくなってきた。
 先輩があんなに慈しむような目で語る好きだった人、もう別れてしまった過去の人のはずなのに、僕より先に先輩に出会った挙句こんなに愛おしそうなのに悲しそうな顔をさせているのが許せなくて、そんな僕の顔を見た先輩は少し困ったような顔をした。
「別に嫉妬させたいわけではないんだけど……」
 ただわたしが好きだった最高人間の良さを皆に知ってほしくてつい話してしまうと先輩は言った。
「でも嫉妬するものは嫉妬してしまいますよ、僕より先に先輩と出会っていたんだから余計に」
「そう……」
「先輩だって先輩の好きな人の元恋人の話なんか聞いたら嫉妬するでしょう」
「しないんだよなあ」
 好きな人が好きだった人の話も聞きたいよ、と先輩は言う。僕はどうしてもそんな気持ちにはなれず、かといってこの嫉妬心をどうにもできないので先輩の手をぎゅっと握った。
「離して」
 あくまで穏やかに、でもきっぱりと言われてしまったので急いで手を離す。やはり触られたり必要以上に近寄られたりするのは好きではないらしい。大好きな温かい手にずっと触れていたいけれど、それ以上に優先すべきは先輩の快不快なので、我慢する代わりに先輩のことをじっと見つめる。
 そうすると先輩は、どうして過去の恋人の話をするのか、どうして他人のも聞きたくなるのか、といった話を始める。それもかなり遠い所から「例えばね」で始めて、段々に元の話に戻ってくるような話し方をする。そうしてサンプルを出されてしまうと僕も納得せざるを得なくなってしまい、最後には先輩の教え方やそんな言葉の数々を滑らかに繰り出せるような人生にすっかり感心してしまう。
 僕がどんな球を打ち返しても、先輩は優しく受け止めてくれる。論破がしたいわけでも、勝敗をつけたいわけでもない。ただわたしは話がしたいし、川西の意見が聞けたら嬉しい。そんな前置きから始まった議論は本当に楽しくて、先輩に負かされてもいいと思っていたのに、お互いにお互いの意見のいい所は取り入れ、そうでもないところは譲らない、もしくはより良いものにアップデートしていける。
 そうして愛だの恋だのの話をしている最中にいつの間にか多摩川からは外れ、僕たちは小さいながらも遊具がしっかりある公園に辿り着いた。辺りはもうすっかり暗くなっており、子供の姿もなかったので、僕たちは安心してベンチに腰を下ろした。先輩は公園の名前が気になったのか調べ出し、古い地名の名残なんだって、と教えてくれた。
「わ、もう七時……川西大丈夫? 帰りとか」
「僕のことは心配しないでいいんですよ、門限なんてないんですから。先輩は?」
「わたしも大丈夫、気ままな一人暮らしだから」
「いいですね、僕も一人暮らしがしたいなあ」
「やればいいじゃん」
 ごめんね、と断りながら先輩は煙草を口に咥え、僕にマッチを渡してくれる。今度こそちゃんと火をつけなくては。親指と中指でつまんで、人差し指でお尻を押さえて、一気に擦る。
「上手だね」
 さらりと褒めてもらえた喜びが胸の中を甘く満たした。煙草を口に咥えたまま喋る先輩は可愛らしい。火はすぐに煙草へ燃え移り、僕の指が焼けてしまう前に先輩が吹き消してくれる。先輩の吐息を指先に感じただけで背筋が快楽で震えた。
「このマッチ、もらってもいいですか。いつでも持ち歩いて、先輩に火をつけて差し上げられるようにしたいんです」
「別にいいけど……家に帰って新品のを持ってこようか」
「いえ! 使いかけだからいいんです。僕は先輩の吸殻だって欲しいと思ってしまいます」
「吸殻は駄目だよ……変な匂いするし」
 求めていた吸殻はあっけなく地面にこすりつけられ、先輩が持ち歩いていた灰皿に閉じ込められてしまった。未練がましく視線を離せないでいるのを見かねたのだろう先輩は、横からすっと手を伸ばして僕の顎に優しく添え、先輩の方に顔を向けさせた。思ったより近くに先輩の顔があって嬉しいと思ったのもつかの間、まだ煙草の匂いが残る先輩にキスをされて頭が真っ白になってしまった。
「せ、せんぱ」
「これで我慢して」
「はひ……」
 駄目だ、もっと欲しい。先輩の甘い匂いと柔らかい唇を感じたい、黒く濡れた瞳を焦点も合わないほど近くで見ていたい。物欲しそうな顔をしているのに気付かれてしまったのか、先輩はまた近付いて何度もキスをしてくれた。一度唇同士が触れては離れる度に頭がふわふわして、視界がちかちかする。理性が消し飛んでしまう。でも気持ちいいから拒めない。
 ぬる、と唇を舐められる。先輩の舌には硬い感触がある、顔を少し離して確認すると舌の上で銀色の輝きを放つ金属が目に入った。きっとピアスだ。先輩が舌を出したままちろちろと誘うように動かすので、僕も思わず舌を出して触れ合わせてしまうと、それだけでも脳が痺れてしまう。
 キスができて嬉しい。先輩とキスができて嬉しい。先輩好きです、好きなんです。口の中を点検するように蹂躙され、歯茎も舌も舐められ、上顎をくすぐられ、汗が何本も背中を滑り落ちていく。小さな金属の檻の向こうで、何日も刺激を与えられていない性器が疼く。違う、性欲に流されたくない。先輩に信用してもらいたい、のに。
「せんぱ」
 かぷ、と首筋を甘噛みされ、喉から漏れかけた喘ぎ声を必死で抑え込んだ。いくら羞恥プレイが好きだといっても周りは住宅街だ、夜で人はいないけれどまだ皆起きている時間だから騒いだら気付かれる。
 軽く噛まれただけなのに、噛まれた場所が熱を持って疼く。もう一度噛まれたい、もっと強く、何日も痕が残るくらい噛んでほしい、先輩の痕を残してほしい。下腹が甘く疼く、先輩がこんなに近くにいて嬉しい、香水がいい匂い、先輩、赤羽先輩、ずっと欲しかった、僕の大好きな先輩……。
 思わずぎゅっと抱きしめて、胸いっぱいに先輩の匂いを吸い込む。先輩好き、好きです、大好きです、僕の赤羽先輩、大好きな先輩。吸い込む匂いで頭がくらくらして、好き、好きが溢れて、あ、ああ、先輩。
「だめ、赤羽せんぱ」
 とぷ、とぷとぷ、溢れ出した先輩への気持ちが下着を冷たく濡らして、体ががくがく震える。興奮はいつまでも冷めず、ずっと長引いて先輩の香水の甘さと混ざる。べたべたぬるぬるになった布が肌にじっとりと貼り付く。先輩の近くにいる喜びで漏らすなんてまるで馬鹿な犬みたいだ。
 先輩は嬉しさと興奮を隠し切れない顔で僕の肩口から顔を上げ、僕と目を合わせて右の口角だけで笑った。指先で濡れたそこを少しだけくすぐって、漏らしちゃったね、と子供をあやすような口調で呟く。その話し方にまた胸がきゅんと締め付けられる。
「ごめん、つい」
 今日はもう帰ろうか、と先輩が突然言い出す。確かにもう街灯がないと歩けないくらい暗くなっていて、ここから家まで何分かかるかもわからない。先輩が立ち上がるのに続いて僕も立ち上がると、先輩の方から手を繋いでくれた。もう離したくなくて指を絡めて、腕や体を可能な限り先輩に密着させてしまった。先輩はもう拒まず、歩きづらいよ、とだけ笑いながら言ってくれた。
 そのまま一番近い都立大学駅まで歩き、北口に辿り着いたところでもう一歩も歩きたくなくなってしまい、出入り口のベンチ付近で立ち止まると先輩も歩みを止めて僕のことを見てくれた。
「僕、やっぱり先輩のことが好きです。ごめんなさい、自分でもう好きだと言わないって言ったのに」
 先輩は僕の顔をじっと見つめて、かける言葉を探しているようだった。遠くの居酒屋の明かりに照らされる先輩は夜によく馴染んで素敵だった。瞬きするだけで涙が溢れそうで、先輩にだけ集中して泣かないように祈る。
「別れたくない。帰りたくないんです、帰ったらまた長い夜を過ごして先輩に会う日のことを考えて胸が締め付けられる」
「ん」
 先輩が右手を差し出す。何だろう、お手? と思いながら左手を乗せると、違うよ、と笑いながら言われる。少なくとも笑顔は講義後の喫煙所で話した頃より多くなった、それが嬉しかった。
「貞操帯の鍵、持っててもらいたいんでしょう」
「え、あ、でも」
「でも?」
 でも、何だっけ。
「いいよ、持っててあげる」
「い、いいんですか」
 慌ててポケットの中を探り鍵を取り出す。先輩は鍵がいくつかついたカラビナに僕の鍵を通してくれて、家に帰ったら首から下げるね、と笑ってくれた。
 先輩にただ鍵を渡しただけなのに、それだけで言い表せないような安心感がどっと押し寄せてきて、電車に座った頃にはすっかり脱力してしまっていた。渋谷で乗り換えて、先輩は大学まで原付を取りに行き、僕は家に帰る。渋谷の雑踏では先輩の姿がすぐに見えなくなってしまう、ああ赤羽先輩、僕の大好きな先輩……。
 また連絡先を教えてもらうのを忘れていたことに気付いたのは、鍵穴に鍵を刺して暗証番号を入力する寸前になってからだった。

こちらからのリクエストは絶対に書きます