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街の報せが聞こえるかい?ceroがケリをつけた2016年のシティポップ

<こちらは2017年の記事です>

2016年、日本の音楽業界で最も耳にした言葉のひとつにシティ・ポップがある。なんて便利な言葉なのだろう!流行を定義付ける有用的な単語が一人歩きして、括られることを嫌うアーティストまで現れている状況には、かつての渋谷系の流行とも近しい雰囲気を感じる。

シティ・ポップ。どうやら1970年代以降にそんなムーヴメントがあったらしい。とはいえ僕が生まれたのは1991年なので、言うなればセカンド・シティ・ポップ(と、愛を込めて名付けたい)の潮流をリアルタイムで体験していない。シティ・ポップって、なんだ?都会的で洗練された音楽?シュガーベイブ?ティンパンアレイ?最近流行っているのは、当時の音楽を現代風にアップデートしたり、違った方法論で生み出した曲たちなのか?オリジンはどこにある?2016年はそんなことをずっと考えていた。

時にアーティストもそれぞれの実験と欲求を満たして鳴らしたい音を鳴らしているのだから、こんなふうに街を彩ろうとか、ジャンルを定義付けようとか、そんな男性的で法的な活動をしているわけではないと思う。そして想像が及ばないような彼らの意図や遊びを飛び越えて、或いは汲まぬまま、僕たちは部屋のレコードプレイヤーで、帰り道にヘッドホンで、恋人とイヤホンを半分こして、音楽を享受する。そのとき瞳に浮かんでいるのは学術でなく、人であり、生活であり、街だ。だからこそ今日は、リズムや楽器などの音楽性やバックボーンの話は割愛して、街に生きるリスナー目線でこんな話をしたい。

「現代日本に、シティ・ポップは存在する。」
悩める2016年も終わる頃、ceroが気付かせてくれたんだ。

本題に入る前に、シティ・ポップについて僕が思っていることをいくつか。

何がシティ・ポップで、何が否か。そんな話ではなく、まずはどうしてこの言葉が2016年、数多のバンドに適用されていたのか、そんなことを考えると、やはりシティという言葉の汎用性に行き着く。この言葉からは六本木の摩天楼もニューヨークの街並みも想起される。そして今では、郊外だってシティになりつつある。情報にすぐ手が届き、場所の持つ意味や優位性が、どんどん均一化されているからだ。それがベッドタウンでも南国でも東京でも港区でも「街に根ざした」音を奏でているということ。元々汎用性が高い言葉が均一化されていることが、シティ・ポップが乱立していた理由の1つかもしれない。

一方、エスケーピズムというのも2016年のシーンで多く聞いた言葉だ。どこか1つ理想郷を設定して、逃避の音楽を奏でるということ。恐らく「シティ」と「エスケープ先」の移り変わりが、元祖シティ・ポップとセカンド・シティ・ポップの性質の違いを生み出しているのはないだろうか?と考えてみた。

シティ・ポップの、1970年代のいわゆる四畳半フォークに対する、あまりにもクールで無機的で逃避的で、何より余りにも「お洒落」なカウンターカルチャーとしての定義が、Suchmosをシティ・ポップの辞書に書き加えたのではないかと、僕は思っている。2010年代初めに興ったファンク・ディスコ再評価の日本への波及と言うより幾分リアリティがあるし、これは半分想像に過ぎないのだけれど、70年代の終わりにに茅ヶ崎から波の音を運んでくれたグループも同じような感覚ー「ここではない、どこか」を持って迎えられていたのではないだろうか?

都市幻想が発展したPARAISO(楽園)への憧れを彩る永井博や鈴木英人、わたせいぞうらイラストレーターが担っていた役割を惣田紗希や本秀康が引き継いでいるように、ジャケットの世界観も合わせて、それぞれの時代の「シティ観」「エスケープ先」を形作っているのだろう。

さらに言及すると、生活や社会、そして戦争への直接的な批判というよりクールで、無機的な音楽が流行する理由はきっと、政治的無関心や無感動などのキーワードで、当時シティ・ポップを愛した(とされる)しらけ世代と僕たちゆとり世代が繋がっているから、というのも言い過ぎでは無いはずだ。きっと元祖シティ・ポップ時代には「ベトナム戦争後の世界」は終わっていて、今は「イラク戦争後の世界」は終わっているんだ。通奏低音として鳴り響く軍靴の音には気付かずに、<雨を見たかい?>でも<アメリカンイディオット>でもないものが時代に好まれ、僕たちに好まれているのだと思う。

ーシティ・ポップは、つかの間の都市幻想に過ぎないのだろうか?
随分と脇に逸れてしまったが、話を元に戻そう。

ceroに初めて出会ったのは「WORLD RECORD」が発表された2011年、とある大学で行われたフェスに、サニーデイ・サービスを見に行ったときだった。その時からずっと僕はceroが描き出す街の住人だ。停電になっても(“大停電の夜に”)船が座礁しても(”Yellow Magus”)、時には学校を抜け出して、秘密の逃避行をして(”Orphans")。

この街は架空なのだろうか。どこにあるのだろうか。と、それこそエスケープ的な想像を張り巡らせながら、彼らのルーツが西東京にあるということ、"武蔵野クルーズエキゾチカ"や"Comtemporary Tokyo Cruise"などの曲名から、ああきっと東京のどこかにあるのだろう、と解釈していた。

そんな折、2016年12月7日に発売されたceroの3rdシングル「街の報せ」。 フックになっているのが、《Can you hear the calling from the city?》という一節だ。そしてVIDEOTAPEMUSICが監督を務めたMVには、東京の街やツアー先の風景が美しく収められている。このとき僕は衝動に駆られて、地元埼玉の、駅から家までの映像をいくつも撮影した。そして街の報せをBGMにしてみた。そうするとこれまで以上に、自分の街が好きになった。街の報せが、聞こえた気がした。ceroが描き出す街は、現実に、こんな近くにもあったんだ。

そしてこれが、彼らの描き出すシティ・ポップなんだ。そう思った。

70年代のシティ・ポップが
「きっと街は素晴らしい。」という都市幻想なら、

現代のシティ・ポップを表現するとしたら
「それでも街は素晴らしい。」

シティという言葉や範囲が洗練されて、憧れのボーダーが低くなった今だから、逃避先はアメリカだったり、南国だったり、ロマンティシズムとヒロイズムにまみれた知らない土地だったりする。それも最高だ。時間に真っ向から抗う同年代のバンドマンもいるし、今だからこそラウドな声で、何度でもオールライトと歌い続けるバンドマンだっている。

一方で、かつて若者が憧れた都会が均一化されて魅力が相対的に減ったように見えても、ちょっと立ち止まって街の声を聞いたら、こんなにも美しく映るのだ。かつて歌われていた「シティ」が存在しない世界でまだ見ぬリゾートだったのだとしたら、ceroの歌う「シティ」には、現実がある。彼らの曲を聞いているとき、ライヴを見ているときに込み上げる涙の中にほんの少しの「悲しみ」が混じっているのも、余りにもそれが「僕たちの物語」だからなのかもしれない。そして何より、幾ら反戦歌を作っても防げない<3.11>という天災後の世界だからこそ一層、街が美しく、愛おしく、そして切なく映し出されるのだ。

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