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二地域居住のススメ(つづき1)

ほんの軽い気持ちで米国に移住して数年過ぎた80年代初期、サンフランシスコの南の小さな街Belmontに生活の拠点を持つことになった。その頃から、日本の視察グループが頻繁に米国にやってくるようになっていた。米国流通業界の最新動向を研究することを目的として、大手流通企業から派遣されたグループだ。

僕はそうした企業向けに、米国の流通とマーケティングの最新トレンドをまとめたレポートを毎週発行していた。この仕事は、僕の人生に大きな影響を与えた「師匠」である(故)ロバート鈴木おさむ氏が企画して、彼から声をかけらた僕と二人で始めたもの。いわゆるマーケティング的なことには学生時代から興味を持っていた。つまり「師匠」は僕に天職を与えてくれたことになる。

すでに日本の流通業界で名前が売れ始めていた師匠とともに、視察グループのために視察をアレンジしたり、レクチャーをしたりという仕事が急激に増えていった。視察グループと一緒に全米のショッピングセンターやスーパーマーケットを見て回る機会が増えていき、当初は数ヶ月に一度だった米国内の視察コーディネートも、やがてほぼ毎月、ひどいときには一月の大部分をロサンジェルスやシカゴのホテルで過ごすようになっていった。そして数年のうちに、米国の有名な商業施設や店舗であれば、行ったことのないところ、知らない店は無いと言えるようになった。

そんなことを続けている間に、米国内で視察グループを受け入れるだけでなく、流通業界誌に連載したり、さらに日本に出かけて仕事をするというケースも増えてきた。数ヶ月おきに数週間という頻度で日本に出稼ぎに行く、という感覚だ。日本にいるときには、当時まだ実家にそのまま残っていた自分の部屋で、学生時代のように暮らした。

その頃は日本と米国のビジネスの間に何年かの時差が明確に存在しており、その時差が商売のチャンスと考える多くの日本企業(特に流通業)が、真剣に米国情報を求めていた時代だ。実際、数年前に米国で起こったことが、いま東京で始まっているのを目にすることも少なからずあった。

そんな形で、日米間のビジネス時差を生活者の視点で伝えられるというのが自分の商品価値だった。僕は日本に生まれ育った日本人なので、日本の状況は当然十分理解できる。その上で、日常的な生活基盤が米国にあるという幸運な環境にあったからこそ、日米間に存在する「時差」を単なる現象やニュースとして伝えるだけではなく、その背景や実態について一歩踏み込んで分析し、日本のビジネスマンに伝えることができたのだと思う。これが当時の僕が二地域居住から得ることのできる最大のメリットだった。

(写真は、Belmontはだいたいこんな感じの街、というイメージです)

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