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止まった時計

春先の午後、街角の古道具店で、澪(みお)は一つの時計に目を留めた。それは小さな置時計で、文字盤の中央に細かいヒビが入っていた。針は止まったままだが、どこか引き寄せられるものを感じ、澪はそれを手に取った。

「それ、動きませんよ」と店主が笑いながら言う。

「でも、飾るにはいいですよね」と澪は答え、その時計を購入した。

自宅に戻ると、澪はその時計をリビングの棚に置いた。動かない時計はまるで静かな彫刻のように見えたが、どこか暖かい存在感があった。少し不思議に思いながらも、日々の忙しさに紛れて、時計のことを深く考えることはなかった。

数日後の夜、澪はふと時計の前で足を止めた。止まっているはずの針が、微かに動いているように見えたのだ。見間違いかと思いながらも、その瞬間を見届けようとじっと見つめる。

しかし、針はピクリとも動かない。

「疲れてるのかな…」と自分に言い聞かせ、澪はその場を離れた。

さらに数日が経ち、澪は奇妙なことに気づいた。時計の針は確かに止まっているのに、その文字盤には、日々の自分の出来事を映し出しているような気がしたのだ。

例えば、仕事で上司に叱られた日には、針が中央で不自然に歪んでいるように見えた。逆に、友達と楽しい時間を過ごした夜には、針が明るく輝いて見える。

「…気のせいよね」と何度も自分に言い聞かせる澪だったが、やがて時計が、ただの置物以上のものだと確信するようになった。

ある日、澪は思い切って時計を手に取り、文字盤の裏側を開けてみた。そこには、小さな紙切れが一枚入っていた。

「時は心で刻むもの。」

それだけが書かれていた。澪はその言葉をじっと見つめ、心がじんわりと温かくなるのを感じた。

それからというもの、澪は時計の針が動くことを期待するのをやめた。ただ、その時計を見るたびに、自分の心がどんな時を刻んでいるのかを振り返るようになった。

そしてある日、澪がリビングの棚を整理していると、ふと気づいた。時計の針が――ほんの少しだけ動いていた。

それは、まるで彼女の心が動き始めた瞬間を映すように。

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