好きの反対は無関心じゃない

好きか嫌いかはすでに
ある分岐を通過した前提の選択肢

正しくは
関心の反対が無関心
好きの反対は嫌い
これでいい

好きか嫌いかは
体験からしか出てこない感想
体験は
そもそも自分から向かっていかないと
できない

体験には
外から観察したりとかも含まれる
テレビで芸能人を見て
好き嫌いを言うのと同じ

好きの反対が無安心とは
元々いじめ問題の中で出てきた言葉であり
この文脈を正すと
親教師という立場で
子供に対して無関心なのは
もうそれだけで虐待
好きじゃないから
嫌うではなく逃げると言う選択を
するな

嫌いなものから
逃げること自体は別に
精神衛生上いいことだし
正しい

でも責任から逃げていい理由にはなってない

その責任が伴わない範囲
自分が責任を負う立場でもいい
そのとき
好きか嫌いかではなく
まず関心があるかどうかを考える必要があり
その上で自分が責任をおうかどうか
好きか嫌いかは、関心があれば考えることになる

逆に言うと
好きか嫌いかを考えている時点で
もう関心があるわけで

そうじゃない人の中には2種類いて
関心がないか嫌いかのどちらか

ほとんどの人は
頭を極力使わないように生きてるので
普通は総合的な結論として
好きとか嫌いとか興味があるかないかはんだんしている

別に悪口じゃなくて
細かくいちいち考えてたら生活にならないんだから
普通のことなんだけど

好きかどうかの裏側には
好きか嫌いかだけじゃないということ
無関心の反対は関心であることを
文面そのまんま捉えてお気持ち表明するんじゃなく
ちゃんと文脈を理解しよう

平たく言うと頭使おうって話

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