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村上靖彦『客観性の落とし穴』読了

村上靖彦『客観性の落とし穴』を読み終えたのだが、うーん不満。
というのも、まぁ良い意味でいうなら期待を裏切られた良書。
悪い意味で言うならば、帯が内容を詐称してる。
一方で、ロレイン・ダストン、ピーター・ギャリソン『客観性』の読書をサボれるか?という、保坂の期待を裏切られてしまったのが不満。(^^)
村上靖彦氏は基礎精神病理学と精神分析が専門なので、ベースとして医療倫理として論がまわされている。
健康とは何か?とか、地中海を中心とした西欧という地方の文化方言に興味がある保坂としてはおもしろく読めたのだが、写真とは何か?の興味には刺さらなかった。

第一章「客観性が真理になった時代」がダストン、ギャリソン「客観性」から多く引かれていて、客観性に歴史があることが語られる。
ダストン、ギャリソン「客観性」では、認識活動を統制する三つの体制/レジーム〈本性への忠誠〉〈機械的客観性〉〈訓練された判断〉があるという。(詳しくは本書を読むか、岡澤康浩の書評を読むと読書をサボることができる。)
「客観性の落とし穴」では〈機械的客観性〉が大きく取り上げられて、フーコー的な権力につながることが語られ第二章「社会と心の客観化」につながる。(この話題は石原千秋『読者はどこにいるのか』の〈内面の共同体〉がよい。)
三章から先は医療の話しになり、そこから客観性からこぼれ落ちるものをどのようにすくい取るか、ということでエスノメドロジーや質的調査の話題も出てくる。
〈機械的客観性〉は競争のための競争や人間を数値で見ることからの脱却、経験の生々しさの復権のために、最後にフッサール〈現象学〉が語られるの下りは、どのように写真を撮るか?という姿勢に参考になるように思えた。
同時に、インゴルド「他者と“ともに”学ぶこと」の手前までがよくわかった。(そう本書は存在論的転回には達していない。)

今回は抜き書きはしない。
この本を読もうと思っていたきっかけは、配信で〈真を写す〉写真からトークをする出番が来そうだったからだ。
そもそも客観性にも歴史があって・・・、その目標は達成できそうだ。どっとはらい。
自由な読書、次は何を読もう。
2024/03/17 8:44

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