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『客観性』と『なぜ、植物図鑑か』

客観性』が面白い。
やっと二章「本性への忠誠」という各論?を読み始めたところだ。

19世紀中頃、現在の意味での“客観性”が生まれた。
すべて“科学”は、多量で多様な“自然”から“ワーキングオブジェクト”を選び取り、体系的に編集し“アトラス”を書く/描く。
その“アトラス”を書く/描くために、「客観的な光景」を獲得しようと科学者が「認識的徳」を追求した歴史を論じているのが、『客観性』という本なのだ。

最初のまだ50頁ほどしか読んでいないが、この本のおかげで、
客観性を得るための多様な、時には相反する認識的徳があること。
それこそ客観性登場以前の認識的徳も存在すること。
科学の客観性/芸術の主観性が、ある一つの認識的徳の裏と表として生まれたこと。
を知ることができた。
おかげで子どもの頃からずっと生きづらさとして抱えてきた、客観性の問題が溶けていった。

ここで写真の問題にふと返り、中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』をさっと読んでみた。
わかるわかる、するするわかる。
15年前に読んだ違和感が、どこかへ行ってしまったようだ。
アレブレボケから植物図鑑の転向の意味もよくわかる。
ポエジーの向こう側の彼岸とは、存在論と理解できた。
中平卓馬が文化人類学の存在論的転回を知ったら、どんな顔をしただろう。
手前味噌だが、自分のモノクロHDR写真からカラーストレートの変化が、中平卓馬と共鳴している気がしてきた。

今まで読んできた写真家の相反する言葉も、それぞれの認識的徳を追求して、良い写真=世界を指し示すアトラスに向かっていたゆえの言葉だとよくわかる。
ユージンスミスは「客観的という言葉は最初に取り除かなければならない。」と言ったそうだ。
これは“本性への忠誠”であることが、いまの僕ならわかる。

2023/10/02 23:36

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