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写真の「話題が変わった」問題

久しぶりに写真の話しをします。
じゃない写真』の渡部さとる師匠とZoomで雑談をした。
僕は2020年代にロマン主義が終わった話しをしたのだが、渡部先生も同じことを感じていて、オリジナリティとか、写真は心の記録とか、美しさとは、とやってきた「そりゃ昔からの写真の人は怒るわな。」とおっしゃってた。
そう『じゃない写真』とは、写真の話題が変わった、ということなのだ。

中平卓馬は『来たるべき言葉のために』の「同時代的であるとは何か?」のなかにおいて、“社会正義派的”写真家を腐している。
その上で

――今、写真家はみずからに問わねばならない。写真を撮るおのれの行為は歴史とどのように関わっているのかと。また、現実にみずから生きるということと写真を撮るということが、どのようにして関わっているのかと。
中平卓馬著『来たるべき言葉のために』p162「同時代的であるとは何か?」

――すべての写真家はコンテンポラリーでなければならない、同時代者として生き、しかも同時に、カメラという機械を通して世界を記録していかなければならない。ぼくはコンテムポラリーという言葉をこのように理解する。必然的に<表現>とはなにか、<芸術>とは何か、が再び問題にされてくるだろう。そして<表現>を支える象徴とか、比喩とか、寓意などというややこしい問題も検討されなければならないだろう。
中平卓馬著『来たるべき言葉のために』p163-p164「同時代的であるとは何か?」

これが旧来の写真ののろしだった、と保坂は読む。
社会変革を夢見た近代から、脱構築による大きな物語りの終焉のポストモダンの移り変わりだった。
それが21世紀にはいって、再び社会派になったんじゃないか?と考えてる。

友人同士で、嫌われる話題とは「自分の話し」しかしない人だ。
しかし旧来のポストモダン写真とは、まさに自分の話ししかしていない気がする。
自分が美しいと思うものは、内的な風景とは、写真は心の記録である・・・。
令和の時代、それほど写真家個人に興味はない。
みんなが知りたいのは、社会の状況、景気や環境、なのじゃないかなと思う。

p.s
おまけにカメラの話しでもしましょうか。
久しぶりにレンズを買い換えた。
Lumix G20mm f1.7 を長らく使っていたが、この度、M.ZUIKO Digital25mm f1.8にした。
レンズ焦点距離年齢説というのがあるけれど、もう20mm=換算40mmは自分には広すぎると思い始めていたところだった。
カメラを始めた頃、M42マウントのテッサー50mm f2.8 とか使ったこともあるけれど、撮れる範囲が狭い=長すぎた感じがして使いにくかった。
つまり、大人になったなぁ、と感じ入った次第。
G20mm f1.7はエモい。線が太く、色が濃くのる。映画的と思う
その点、D25mm f1.8は繊細だ。解像感が高く、シズル感や透明感を感じる。二本は本当に性格の違うレンズだ。
いまD25mmの、蒸留水的なノームコアな写りが気分に合う。
レンズから、写真の話題を変えていこうと思う。

どっとはらい。

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