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メタバースとNFTとポスト真実?本質?と

読みたい本が多すぎる、というのは幸せなことなのだが、集中力を超える読書欲は一種のせきたてられるような苦しさを感じる。

最近は、オリジナルのないコピーという概念「シミュラークル」を掘っている。
しかしシミュラークル≒提唱者ボードリヤールぽい感じあって、目の前に『シミュラークルとシミュレーション』だけでなく、ボードリヤール全著作が山脈のようにそびえ立ち、ちょっと呆然としてる。
その山脈から大きな河が流れていて、椹木野衣『シミュレーショニズム』や東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』がどんぶらこと流れてくるのだ。

そもそもシミュラークルが気になったのは、メタバースやNFTからである。
NFTには、まだ重要なテクノロジーが実装されていない気がする。
メタバースによって、再生鑑賞環境やオープンな流通環境が整ったとしても、「頒布」するピースが足りない気がするのだ。
それでいてNFTのバブルぶりはなんだろうと思ってしまう。

自分の大きく正しいと思っている考えと、ある一部の世界の大きな成功が交わらないというギャップ。
そこで思い出したのが“Qアノンのシャーマン”の顔である。
これは“基底現実”が違うのかも、と考え始めたのが、シミュラークルを読み始めた始まりだ。

でもね、シミュラークル≒ボードリヤールは難しい。
ふとそこら川辺に生えていた、アンヌソヴァージョ『ボードリヤールとモノへの情熱:現代思想の写真論』を手に取ったが、とげで手を切った。(^^)
なぜ事物を、記号とモノそれ自体、に分けて、モノにこだわるのか?
面倒くさいなぁと、河を見回すと。
これまた山脈から、ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について ならびに「聖像衝突」』がどんぶらこと流れてきた。

お菓子が食べたくなり、山と川から離れ、近くのコンビニに向かう。
そもそもの“基底現実”の違いが気になっていたんだから、とこの本をコンビニで手に取る。(ながーい枕だった。)

ケヴィン・ケリーの『5000日後の世界』である。
ケヴィン・ケリーはホールアースレビューからワイヤード創刊編集長という、ノートを読んでいる人に影響を受けていない人はいない、僕らが足を向けて寝られない人である。
そのケヴィン・ケリーの13.7年後の未来予測である。
昔は、こういう本が好きでよく読んでいた、とほっとする。
がりがりくんぽい、既視感を感じる。(当事者研究)

副題が「すべてがAIに接続されたミラーワールドが訪れる」とあって、シンギュラリティ、メタバース、NFTバブルを超えた先を話題にしてくれてありがたい。
真実さや本質、陰謀論とシミュラークルなどなどは「質の違い」ではなくなって「確からしさの程度差」問題になっていく、と保坂は考えていて、その中での「真実を写す写真」のことに興味がある。

ケヴィン・ケリーの『5000日後の世界』は薄い新書なので読みやすい。偶然、輸入スーパーで見つける、食べたことがない海外のお菓子感覚でおすすめ。

また
2022/02/17 15:33

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