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デュシャンの芸術係数と『創造性はどこからやってくるか?』第三章

先週の『創造性はどこからやってくるか?』第三章の読書会は休んでしまった。いま Zoomの録画を見ているところ。
録画を見て、マルセル・デュシャン『創造的行為』を読み、三章の読書日記をリベンジしようと思う。

マルセル・デュシャン『創造的行為』はプリントアウトしてもA4用紙二枚ほどの分量で、togetterのまとめに全翻訳が載っていたので、リンクを張っておく。
1957年の米国での講演をまとめたもので、アーティストは霊媒の様な存在であり、アーティストの意図と観客へ実現したことのギャップを「芸術係数」と呼ぶ、という内容だ。
つまり“デュシャンの芸術係数ゼロ”とは、“中平卓馬の植物図鑑”に当たると思われる。
デュシャンがいう、霊媒と芸術係数という概念が三章の予習となった。

・本章では、肯定的矛盾と否定的矛盾の共立を、実際の作品、特に小説の中に見出し論じていく。p76
・前章では外部に接続する装置、外部を召喚する構造としてのトラウマ構造を説明した。創造とは、外部に接続し、外部を召喚する行為である。だとすると、トラウマ構造とは、創造のための準備であり、心構えではあっても、それ自体が創造となることはない。p76
・これ、すなわち霊としての小説を降ろすための、いわば降霊の儀式こそがトラウマ構造である。p77
・小説とは読み手の存在するものであり、読書体験とは、読み手が外部を召喚するための、召喚の儀式なのである。つまり読者もまた読書を通して創造するのである。創造をうまく助けてくれる小説こそが、本当の小説なのであり、読書を体験として実現してくれる媒体なのである。p77
・小説を読むことは、ジグソーパズルの正解を得るように小説全体を通してのたった一つの正しい意味を確定することではない。そうではなく、読書が、纏わりついた意味を紡ぎながら、一枚の織物を編む体験であることは、もはや明らかであろう。p80
#正直、テクスト論や読者論で一回、救われている保坂としては当たり前すぎて、引っかかりが少なかった。

・創造する作家-もちろん全ての作家が創造するわけではない-は、完成の瞬間がわかる。p99
・つまり、ここには、肯定矛盾と否定矛盾のせめぎ合いによって開かれた「穴」、抽象的で見えない穴が開かれている。完全無欠な絵画に、外部を召喚する穴が存在するのである。穴はいかにも欠如、不完全さを示唆するものだ。完璧さと不完全さが、ここに同居するのである。p101
#脱色と穴、は似て非なるもの?
 この二つの文章は読者を釣るための召喚の仕掛け=トラウマ構造に読める。

・肯定矛盾と否定矛盾の穴が、外部を召喚する完璧な穴であるように、小説は設計されているわけだ。それを見出せない者が、そこに未完成感を見出し、不満を述べる。p102
・そして「穴」があるからこそ理解において当事者性があり。作家がある。肯定矛盾と否定矛盾を配することで、穴が構成される。それは、作家に書き下せないものが、作品外部から押し寄せる穴である。つまり、作家は、何か書き切ることで完成をみるのではなく、書き切れないものが押し寄せる穴を描くことで完成をみる。p103
・しかし「穴」のある作品は、当事者において理解されるがゆえに、作家性を有する。p104
#ここはおもしろかった。

これから四章を読む。
どっとはらい。
2023/10/28 13:47

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