見出し画像

『創造性は・・・』第四章の読書ノート

この四章は気づくことが多い。

日常とは、一回きりの一人称が反復することだ。つまり日常は、経験的でありながら、繰り返し可能な理念と見なされる。だから、日常とは一人称であり三人称である。p121

創造性はどこからやってくるのかー天然表現の世界

などは非常に写真的であり、森山大道の言葉「写真は記録ではなく記憶。」という言葉も思い出される。
ペギオさんは実家を選んだが、僕の場所は“東京”であり、“ストリートスナップ”が方法になるかもしれない。

永遠性や無時間性は、クトゥルフ神話の想像力を思い出す。
ラブクラフトの狂気は、ペギオさんに通じているような気がする。

だから、永遠という外部がやってきた。p124

創造性はどこからやってくるのかー天然表現の世界

思い返せば、自分もストリートスナップしていると自分も含めて百鬼夜行的になり、あの“ヒト”が本当に人であるか?わからなくなってくる。
そうする内に電柱の影とか、列が詰めにくい場所に“ヒト”の気配を感じるようになる。

こうして、私は、天然表現の場所を、決めたのである。p127

創造性はどこからやってくるのかー天然表現の世界

とステートメントのタネとして残しておく。

・近年の心理学は、最近のこと、新しい記憶は一人称記憶として思い出され、昔の自分の小さい頃の記憶は三人称記憶として思い出される。p114
・だから一人称的風景は、特定の固定された視点、「わたし」の視点から見た風景だ。これに対して三人称的風景は、どこからでも見ることのできるモデル的風景である。p115
・つまり、一人称的風景がぼんやりしながら、パッチワーク状に全体を構成するというのは、断片的で不完全な一人称的記憶から三人称的記憶を作り出そうという過程であり、一人称と三人称を同居させようとする過程であると思われる。p116
・その中心に位置するヒシバッタや、オオスカシバの蛹は、だから純粋な一人称ではなく、むしろ際だって一人称でありながら、三人称の中心でもあり、イコンのような記号にもなっている。p116
・だとすると、その鮮明さは、記憶の鮮明さというよりも、三人称的記号の明晰さではないか?その意味で、それは、一人称的記憶と三人称的記憶を共に肯定する、肯定的矛盾に位置づけられるのではないか?p116
#一人称的な“当事者性”。三人称的な“風景”。中動態的な“記号”?

・私は、「他者視点断絶」に概ね同意するものの、自己視点身体と他者視点身体の両者が安定的に存在し、健康であるかぎり、二つの身体の連絡がうまくいく、という議論には賛同しかねる。p118
・したがって、自己視点身体と他者視点身体の間には、齟齬、軋轢があって然るべきである。それは病的な状態ではなく、むしろ常にそのような状況にあると考えるべきだろう。p118
#ここはロジャースの「クライエント中心療法」ぽいと思った。

・その上で、「他者視点断絶」を再解釈してみる。p119
・そのきっかけとなる「自分は太っている」という身体イメージは、二つの身体イメージを媒介する、重要な役割を果たしている。p119
・自己視点身体と他者視点身体は異質な概念で、本来、両立し得ないものだ。p119
・まとめると、「自分は太っている」は、その性質において二つの身体イメージを共に肯定する肯定的矛盾の体現者であり、機能として二つの身体イメージを否定する否定的矛盾を形成するものだと言える。つまりそれは、トラウマ構造そのものなのである。p120
・身体をイメージ記憶に置き換えることで、一人称的にヴィヴィッドで、三人称的に象徴的・イコン的な身体イメージ--「自分は太っている」--は、一人称的にヴィヴィッドで、三人称的に象徴的・イコン的なイメージ記憶に置き換えられることになる。p121
・それこそヒシバッタやオオスカシバの蛹のイメージ記憶である。つまりそれは、純粋な意味での一人称記憶や、三人称的記憶を両義的に有したものであると同時に、それらを共に否定し脱色するものである。p121
#“身体”を“イメージ記憶”に置き換えることで、“身体イメージ”が置き換えられる。

・永遠性、無時間性はどうやって、やってきたのだろうか。p123
・つまり、過去と未来は決して共立しない、異質な概念である。ところが、「いま・ここ」を生きるわたしは、過去と未来を共立させている。それは、過去と未来との両者を受け入れる肯定的矛盾を実現してる。p123
・それは、「わたし」が感じる有限の過去や、創造することができる有限の未来と異なり、均質で、一切のあわいも隙間も構造もない。無限の過去と無限の未来は、「わたし」が理解する有限の過去、有限の未来とはまったく異なる時間なのである。だからそれは、過去も未来も否定する否定的矛盾を実現している。p123
・つまり私は、物質として、無限の過去、無限の未来を引き受け、瞬間に立ち会った。p124
・それは肯定的矛盾と否定的矛盾を共立させる、トラウマ構造を開く一瞬だった。だから、永遠という外部がやってきた。p124
#アプリオリとクトゥルフ神話を思い出す。

・実家とは、そもそも、以前と以後を、日常の意味で共立される場所だ。p124
・にもかかわらず、そこにある以前と以後に意味を持たせる両親はすでにいない。p125
・ここにも、二者択一的な以前と以後を、日常として共に受け入れながら、脱色され共に否定されてしまう、トラウマ構造が見出せるのである。p127
・こうして、私は、天然表現の場所を、決めたのである。p127
#この後も続くのだが繰り返しなので、ラインを引きながらもノートにはしないでおこう。
どっとはらい。

2023/11/01 12:28

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?