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『メイキング文化人類学』読書ノート四章

前回のマリノフスキーにおける機能主義的全体感とは、去勢が約束された全能感、といえるものだったが、これは写真家として非常に共感できた。写真家はいつでも、オレって天才!、という瞬間を求めて撮影しているのだ。
これから読書ノートするグリオールも、自分として非常に思い当たることが多いが、あえて言うならば写真家というより、映像作家、動画を撮っている人に近い気がする。
ふと思い立ったのだが、グリオールは「クールベからの写実主義(リアリズム)」の影響ですね。

第4章 見晴らしのよい場所
     ― グリオールとドゴン研究[浜本 満]
1『水の神』
・グリオールの『水の神――オゴテメリとの対話』は不思議な民族誌である。
・グリオールはその知識を単に一つの体系として報告する代わりに、この三十三日間の対話を日を追って記述していくことを選んだ。「これまで一部の物知りが独占することになってきた仕事」つまり民族誌調査の仕事の実際を専門家ではない一般読者に知ってもらおうというねらいも、そこにあった。オゴテメリとの対話のなかに訪れる何度かの啓示の瞬間。それはフィールドにおける知の成立をドラマ仕立てでわれわれの前に提示する。

2研究対象としての全体性
・グリオールは、マリノフスキーに始まる重点的フィールドワークの伝統とは異なる、もう一つの伝統、フランス人類学におけるフィールドワークの伝統を代表している
・マリノフスキーにとっての社会は、ある特定の場所に生息する生命をもった一個の有機体に似た、まとまりをもった対象としてイメージされていた。フィールドワークとは、それぞれの「社会」がまさに生きているその現場でそれを観察することにたとえることができた。それをまるごと把握することが目標であった。
・これに対してグリオールたちが目指していたのはもう少し漠然とした全体性、たとえば「アフリカ的なるもの」などという言い方で示されるような全体性の把握であった。
・いずれにしてもこの種の全体性においては、それを構成する諸部分は、マリノフスキーの場合と違って、問題となる全体(たとえば「ドゴン的なるもの」)に対する穏やか結びつき以上のものを示すことは要求されていない。というよりも、むしろ、あらゆる事実が、「ドゴン的なもの」「アフリカ的なもの」がどんなものであるかを考える材料となるのであり、いかに多くの正確な材料を提出できるかが勝負なのである。

3事実へのアクセス
・この違いは、フィールド経験で何が最大の困難であったかに付いての、マリノフスキーとグリオール両者の相違とも関係しているかもしれない。
・(マリノフスキー)あまりにも雑多な諸事実をそうごうしなければならない、それこそが彼の前に立ちはだかっている大問題であった。一方、フィールドにおける事実のアクセスという問題に関しては、ときに日記のなかでその困難が告白されているとはいえ、最終的には彼はある種の特殊な一望監視的な虚構を信じることができたかのように見える。
・(グリオール)彼は社会的諸事実に対する調査者のアクセスが、実際に極めて限られたものであることに、はっきりと気付いている。それどころか彼は、調査者の諸事実へのアクセスを妨げるもろもろの障害にとことんこだわり続ける。
・知りたい事実は観察者の目から隠され、逆に観察者の方が、その遮蔽の背後からの人々の遠慮ない視線に、逃れようもなく晒されている。無力な観察者は、ぎゃくに観察される対象なのだ。
・人類学者は、現実にはみずからがけっして手にしない位置、見晴らしのよい監視所を夢見ている。
・しかしもっとも大きな障害は、人類学者自身の存在の空間的、時間的制約である。
・この点で英米流の一人の人類学者による単独調査よりも、チームによる調査をグリオールが好んでいたのも理由のないことではない。

4観察者の視点と現地人の視点
・グリオールのフィールドワークについてもっとも洞察に満ちた考察をおこなっているクリフォードは、こうした大人数のチームによる観察行為は「当の儀式の進行を必然的にかき乱すに違いないし、おそらくは違った方向に向けてしまうだろう」と注意を喚起している。
・むしろそれ以上に問題なのは、こうしたグリオール風の全貌把握――というよりはむしろ全事実の把握――がもたらす知識の性格である。
・ドゴンの誰であれ、一人で一部始終を見ることなどできず、そうした形で全貌を知りうる立場にないという点では、この孤独な観察者と似たり寄ったりのはずである。グリオールらの手にれるリアリティは、単独の参与観察者にとってのみならず、かんじんの現地の人々にとってのリアリティでもないのである。

5社会的事実の視点依存性
・それはつまり、社会的事実も、他の自然物一般がそうであると普通に考えられているように、観察者の視点には依存しない、つまり誰がそれを観察しようと一つの同じ事実であり続け、その本性を変えたりしないという想定である。
・しかし読者は社会的事実について、違う見方があることもご存じだろう。社会的事実は自然物と違い、ソシュールが言語について指摘したように、それを見る者の観点がその存在の仕方そのものを左右する構成要素になっているという見方である。
・仮にこのような社会的事実が、ある共同体に所属する者が身につけている特定の観点あるいは者の眺め方のもとで成立しており、人々の実践のコンテクストである社会的世界がそうした社会的事実によって構成されており、人々の実践がそうして成立した社会的事実をターゲットとしまたそれに基礎づけられているのだとすれば、ある社会の人々の実践を、その共同体に属さない者が観察を通じて理解しようとするのは、いささか心もとない試みだということになるだろう。

6グリオールのフィールドワーク
・グリオールは現地人の視座と観察者の視座のあいだに、アクセス権以外の本質的な違いを想定していない。

7オゴテメリとの対話をどう位置づけるか
・『水の神』あるいは盲目の老人オゴテメリとの三十三日間にわたる対話の物語は、グリオールの調査方法論とその前提に対してどのような位置を占めているであろうか。
・この対話は許された者つまり秘儀的世界への参加が認められた者に対する秘密の知識の伝授以外のなにものでもないように見える。まさにクリフォードが指摘するように、これは一種のイニシエーションなのである。

8対話者の資格と物語的枠組み
・『水の神』のイニシエーション的枠組みはさらに、われわれになじみ深い一つの原型的物語を強く思い起こさせるものでもある。主人公が異世界に赴き、さまざまな試練を経てみずからの資格を証明し、その世界の住民(精霊の女王、魔術師などなど)から秘密の知恵や技を伝授されて帰還するというタイプの問題との明らかな類似。それどころか『水の神』はそのままこのタイプの物語の一つであるように見える。
・人類学のフィールドワークには、もともとこの種のロマン主義的想像力がまといついているのだが、グリオールの叙述は、この物語的想像力を彼の民族史的知識の提示の枠組みとしてあからさまに利用しているのかのように思われる。

9特権的な観望点を求めて
・オゴテメリ以前と以後を通じて一貫しているのは、外来の観察者が部分的で制約されているという事実の上になされる特権的な立脚点の追求、そこに立ったときに社会がまさにその全体性を一望のもとに表すであろうような特異点の追求である。
・マリノフスキーは、社会的リアリティに対する観察者も含め個々人の経験の部分性と制約に、グリオールほど悩まされてはいないようにみえる。その一方で、彼は特権的な知識の源泉を探し求めるようなこともしていない。現地の人々のなかに自分たちの社会の全体を把握している人がいるとは、彼は想定していない。彼の参与観察は、対象社会の内であれ外側であれ、どこかにこうした不動の観望拠点を見出す作業ではない。さまざまな活動にそのつど参加することを通じて、それぞれの活動における一参加者の視点を、そしてそれのみを獲得することを目指している。それらのどの一つをとっても部分的で制約された視界のなかにあらわれる諸事実は、したがって理論的に総合される必要があった。社会の全体性は、観察された事実そのもののなかにではなく、理論的にのみ見出される。

2022/09/25 10:32

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