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さいたまゴールド・シアター最終公演「水の駅」 美しく結晶した15年

 15年という歳月が結晶したような、美しい舞台だった。
 演出家の故蜷川幸雄が2006年に創設した、高齢者演劇集団「さいたまゴールド・シアター」の最終公演「水の駅」。演出の杉原邦生は、太田省吾が1981年に発表したこの沈黙劇にゴールドの、そして団員個人の歩みを重ね、演劇への祈りにも似た透明な時間を出現させた。
 がらんとした舞台空間に、水場が一つ。白いワンピースの少女、乳母車を押す夫婦……。どこからともなくたどり着いた人々が、取っ手の壊れた蛇口から流れる水に触れ、内なる葛藤や願望を呼び覚まされる。やがて、次の場所へと旅立っていく……。
 スリップ姿で激情をぶつけ合う女性たちに、ゴールドがかつて上演した清水邦夫「楽屋」の舞台を。オリジナルのテキストから設定が変更された、車椅子の〈叫ぶ母〉と〈殴る娘〉のシーンに、団員の誰かが抱えていたかもしれない日常を。無名の営みの連続から記憶や個人の物語を読み取っていくうち、観客は、彼らにとって水場が何を意味するかに思い至る。
 「年齢を重ねた人が個人史をベースに、身体表現を通じて新しい自分に出会えるのではないか」。彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督に就いた蜷川が、55歳以上の演技未経験者ばかりのカンパニーを作ったのは、そんな思いからだったという。
 気鋭作家による現代劇から、シェイクスピアの「リチャード二世」まで。作品の時代や演じる役の年齢は異なっても、その舞台には常に、今この瞬間と、人生を訪れたある季節の記憶を同時に生きているかのような、豊穣な時の流れが存在していた。
 言葉によってキャラクターを規定されることなく、〈歩く〉ことを通じて身一つの自分が顕わになるこの作品を得て、その感覚は、極限まで研ぎ澄まされたのではないだろうか。
 終幕、大きな荷物の男によって、水場に集った人々の痕跡はきれいに片付けられ、舞台には蛇口からしたたる水音のみが響く。そこに駆け込んでくる、白いワンピースの少女。まるで冒頭の情景を再現するように、彼女は振り返り、ゆっくりと水場に引き寄せられていく。
 その瞬間、去りかけていた男の顔に浮かぶ表情。私はそこに、ゴールドが紡いだ時間は演劇の中で生き続けていくのだ……という演出家の、そして団員たちの信念を見た気がする。
 パンフレットによれば、発足当時47人だった団員は現在33人。そのうち、今回出演を果たしたのは18人。コロナ禍で公演活動が停止していたこの2年間、心身共にモチベーションを保ち続けた団員と支えた関係者に心からの敬意を送りたい。そして、この舞台に立ち会えなかった団員にも拍手を……。
 ゴールドと、やはり今夏に活動を終えた若手集団「さいたまネクスト・シアター」。劇場を拠点に立ち上げた、この二つの集団との創作に、晩年の蜷川は情熱を傾けた。どうかその優れた成果を、特異な事例として語り継ぐだけにとどめないでほしいと思う。公立劇場が創作集団を持つ意味や、演劇と社会の関わり方。彼らの歩みから、これからに生かしていくべきことは多いはずだ。
 この輝きを「追憶」の中の存在にしないためにも。(文中敬称略)


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