原初の区別の操作

あるひとつの世界が今日も昨日と同じようなものとしてまとまり続けるために、ひとつの秘密の営みがある。

その営みとは、あるひとつの世界を、その「外部」と区切る操作を繰り返すということである。

外部は他所からやってくる?

あるひとつの世界がそのようなものとして成り立っているのは、その世界そのものの中心になにかそれをまとめ上げる求心力がある為ではない。

区切る操作を経て、ひとつの世界とその外部が区切られることによって、ひとつの世界ははじめてまとまりになる。この区切る操作より前に、世界や、その外部というものがそれ自体のまとまりをもって存在しているわけではない。

言い換えると、あるひとつの世界とその外部との関係は、元々別々にどこかにあった世界と、それとは別にどこかにあった別種の世界が、後から接触してしまったという代物ではない。

ひとつの世界ははじめから、それがひとつの世界であろうとして、境界線を引き続けることによって、同時にその外部を産んでいるのである。

誰を排除するか?

後から突然やってきたかに見える異質な外部は、実は、こちらの世界が産まれると同時にそこから区切りだされた何かである。私たちの世界の誕生と同時に、コインの裏表のような関係で、その外部が生まれているのである。

異質な外部は、私たちの世界よりはるかに以前から、それ自体として存在していたものではない。境界線を引く操作によって用意された外部という位置に、たまたま何かがはまり込んだのである。

まず区別するという操作が第一に進行しており、誰が境界線の向こうにはじき出されるかは予め決まっていない。区別の操作の痕跡をありありと見せることができてしまうのなら、外にはじき出される誰かは、恐るべきことに誰でもよいのである。

この区別の操作は、一度では終わらない。こちらの世界が維持されるためには、区別の操作は営々と繰り返される必要がある。ある誰かを異質なものとして一度排除したとしても、そこにひとつの世界が残ろうとする以上、当の区別の操作自体は決して止まることがない。そしてまた新たに、適当な誰かが新たに境界線の向こうにはじき出されることになる。

外部を内部に取り込むことが解決策なのか?

外部を区別することが「わるいこと」なのではない。外部を区別する操作こそ、人間が自分たちの生きる世界をこの世に作り始めて以来、その生存の条件を様々な形で人工的に維持しつづけることができた力の源である。外部を区切りだすことによってのみ、あるひとつの世界はその内部を、昨日と同じ世界として、また今日も再生出来るのである。

問題なのは、外部を「完全に消去されるべきありえないもの」とみなしてしまうことにある。これはこちらの世界を最初に生み出している区別の操作のことを忘れている状態であり、ひとつの世界を維持していくうえで極めて危険な状態である。

外部の存在がこちらの世界を支えている、という言い方は、外部それ自体をなにか内部とは無関係に存在するひとつのもののように見せてしまう点で適切ではない。問題は、ひとつの世界を支えているのがその世界とその外部とを切り分ける操作にあり、その操作はいつでもどこでも実際に進行しているということに気付くことができるかどうかにある。これは自分たちの世界を自分たちで日々再生させながら生きるうえで欠かせない叡智なのである。

古来、人類はつまり内部と外部の区別を再生し、自分たちの世界を自覚的に回復するということを、とても洗練された言葉と態度で営んできた。この外部と内部の区別の操作の、洗練されたやり方を描き出したのがレヴィ=ストロースの神話理論である。

ところが現代に至るにつれて、人類はその技術を少しづつ失ってきたかに見える。外部を徹底して抑圧し、こちらの世界からまったく見えないようにしてしまうという行き方である。そこではこちらの世界は、外部などとは一切かかわらず、完全にこちらの世界だけで自存しているかに見える。

とはいえ、外部は決して取り除いたり、縁を切ったりできるような異物ではない。外部の存在はこちらの世界の成立と同義である。外部と内部の関係を区別しつつ再生し続けることこそが、こちらの世界そのものを常に新たによみがえらせる営みにほかならないのである。

あるいは、排除され抑圧されている外部を、やわらかくこちらの世界の内部に取り込もうというのもまた、世界はこちら側だけで成り立ちうるとの発想に基づく点で、その「こちら」が何との区別で「こちら」に成っているのかを見失いがちな点で、暴力的な排除や抑圧と同じくらい危ういのである。

外部は外部のまま外部であり続け、透明な境界面を挟んでこちらの世界のすぐ隣に生き続けることができなければならない。それこそが、外部はそもそもはじめから外部であったわけではなく、こちらの世界が産まれるときに必然的に切り出され、同時に誕生したものであることを、こちら側の私たちに思い知らせる契機となる。

この切り分けは一度だけで終わってはおらず、いまもここで、いつも、いつまでも繰り返し行われ続けなければならないということ、それによってのみこちらの世界が維持されていることをこちらの私たちもまた思い知らなければならない。

外部は、自分たちの生きる世界を自分で引き受けて生きるかどうか、ということを私たちに問うているのである。

現代の私達は、自分たちの生きるこの世界が、自分とは関わりのないドコか遠くで、予めドコかで完成されていて、与えられているものだと感じているようである。しかし実際にはそのようなことはなく、私たちは日々、私たちと私たち以外を、自分が属するこちら世界とその外部とを、区別し続けることで「私たちの世界はこんなもの」というのを蘇らせているのである。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。