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宇宙と意味作用を「同じ」とみる知性について-読書メモ:安藤礼二『迷宮と宇宙』

デノテーションコノテーション

既知の意味の伝達と(常に新たな)意味の生成

ラングランガージュ

などなど、意味には二つの姿がある。

ひとつめは、最初から何が正しいかが決まっている意味である。

それは「誰もが知っている」ものの名前のような意味である。そこでは「正しい」意味と「正しくない」意味の区別がはっきりと、はじめから区別されている。世界の存在についての正しい意味は、私たちひとりひとりがなにを思おうがそれとは関係なく、予めどこかで決定済である。その正しい意味を誰もがいつでもどこでも同じように判別することが出来るはずだし、できなければならない。

そういう具合に信じられる意味。

この意味は「それをあらわす記号」と最初から最後までいつもつねに結合している。私たちの日常の言葉は、この決まりきった意味を「運ぶ」乗り物であるというようにイメージされる。

ふたつめは、予め決定済みとは考えられない意味である。

決定済みではない意味とはどういうことか?

それはつまり、それ自体が仮設的で暫定的な仮定の試みであるような意味である。この試みの中では、記号はそれが表す意味を予め決められていない。

決められていない、というのは決して記号と意味が乖離して別々のふたつのものになるということではない。記号と意味はあくまでも「意味する」とか「意味作用」と呼ばれるひとつの「動き」が演じる二つの姿である。

意味するということー区別して置き換える

わたしたちが記号とか意味とか呼んでいることの正体は二つの動きの組み合わせである。まず(1)区別をすること、それを至るところで何度も何度も繰り返し試みること、そして次に、互いに区別された二つのものを、(2)異なるが、同じもの、として置き換え可能な関係に置くことである。

決定済みではない意味というのは、この意味作用の正体、区別して置き換えるという動きが蠢く現場に立ち会った時にはじめて見えてくる。

このところ読んでいる安藤礼二氏の『迷宮と宇宙』は、近代という完成済の表面が時空のすべてを覆い尽くし初めた時代の只中にあって、出来合いの意味という外観を引き剥がし、その深層で蠢く未決定のままの意味作用の動きを直視しようとした人々の「言葉」を集めていく試みである。

例えば、折口信夫をめぐって。

「折口が自らの学の核心と主張するマレビトという概念もまた「私」でも「あなた」でもない、自己と他者の間、共同体の外から出現する中間的な存在であった。天と地の中間に生息するものだけが口にすることができる、諸言語のあわいに紡がれる聖なる言葉、「純粋言語」。『迷宮と宇宙』p.6

間、中間が、口にする言葉。そして

純粋言語は「翻訳」という諸言語が生成する瞬間を切り取る行為のなかに顕現する。『迷宮と宇宙』p.8

レヴィ=ストロースが『神話論理』で取り上げた神話たちが語るような、天と地、太陽と月、自己と他者、外部と内部、人間と機械、生と死、存在と非存在、善と悪、愛と憎。こういう互いに区別される対立関係で世界は成り立っているようにみえる。

あるいは人間と道具も。

こうした区別は、そもそも区別をするからこそ、その結果として区別できるものになったのである。

そうなると、区別に先立って、区別以前、未区別、未分節の何かを考えることができる。

それは何か特定の記号に置き換えて理解できるような本質や均質性を持っていない。あらゆる「理解」ということが、何らかの区別に基づく対立関係のどちらか一方に置き換えることで意味を作り出すという操作に依っているとすれば、この区別以前のものを、区別を使って理解することは無理になる。区別に置き換えた瞬間、それ以前は消えてしまう。

区別以前を強いて言葉という区別の体系に置き換えて、写像させて、その姿をイメージしようというのであれば、均質にして不均質、静止した静謐でありながら轟々と動き、多様体でありながら「一」であり、未分節でありながら分節へと動く、そういう両義的で中間的な表現によって示される他無い。

私たちの日常の世界は、こういう区別を「作られたもの」としてではなく、予め厳然と存在しているもの、作る過程を全く経ずに、最初から存在しているとのだということにして、それでどうにか束の間身を寄せることができる明晰な確たる意味の世界という虚構を作り上げている。

そうしてある一つの虚構を他の無数の虚構とは異なるものとして区別するために、真実と幻想のような区別を設けることになる。

しかし、真実もまた幻想であり、幻想こそが真実である、ということに気づいてしまったのが近代なのである。

いや、近代と言わず、レヴィ=ストロースが『神話論理』で明らかにしたように人類は大昔から、真実は幻想であって、幻想こそが真実であることに、いつも冷徹に気づいていた。

しかしここで絶望したり、「本当の真実」などというよくわからない幻想を求めようとしなかったところが、古代人の、太古の知性の、野生の思考の、柔軟で冴え渡っているところである。

彼らは天と地の中間、自己と他者の中間、あらゆる中間的な存在や、善でありかつ悪であるといったあり方や、「どちらでもあってどちらでもない」といった「二重構造」を背負ったものを思考の中に登場させる。

そうして中間的な存在、両義的な媒介者があちらからこちらへ行ったり来たりする姿を思い描いては、世界の意味を織りなす区別の網の目が、できあいの既製品でもなく、完成され尽くして止まったものではなく、常に動いていること、そしてその動きはすべて違いに影響を与えあっている「縁起」的関係にあることに思いをはせたのである。

「ポーにとっても篤胤にとっても世界は二重性を帯び、「中間」の状態として生成される。宇宙とは物質であり、同時にそのすべてを貫く神の作用なのだ。ポーは神の心臓の鼓動のたびごとに宇宙が生成と消滅を繰り返すといい、篤胤は」神のあらゆるものを結び合わせる作用によって宇宙は生成と消滅を繰り返すという。…世界への内在と世界からの超越に区別がつけられない状況こそが、この宇宙の真実なのである。おそらくそれは「近代」という時代の真実でもあった。『迷宮と宇宙』p.28

鼓動、リズミカルに区切りを入れること、区別すること。そしてあらゆるものを結び合わせる、置き換え、異なりながらも同じものとしてひとつにすること。

この二つの「動き」は、意味という現象の精髄であると同時に、生命そのもののもっとも基本的なアルゴリズムでもある

死すべき個人も、個人にとっての主観的な意味も、そして社会も、国家も、人工物も、自然環境も、動植物も、地球も、宇宙も。その存在の意味は、不均質で動的な「一」でありながら、そこに無数の不均質さのひとつの表現として、区別の動きと、置き換えの動きが生じるところから始まる。

この「動き」を、動きとして意識のもとにすくい上げる技術というのが、両義的で中間的な、「善悪、真偽、どちらでもあってどちらでもない」ものを走り回らせる物語の力であり、呪術の儀礼の力だったのである。

その力を、生命の一瞬の瞬きであるひとりひとりの人間の中で、饒舌な沈黙をもって語らせること。それがおそらく意識とともに生きるということなのであろう。

つづく

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