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様式を受け継ぐ−世界を信頼に足るものに作り変えるために

 縄文土器がおもしろい。

 何がおもしろいって、縄文土器には様式と、そして歴史がある。

 ある地域で始まったひとつの様式が、隣接する他の地域にも広まり、同じようで少し違った様式の土器が造られる。
 ある時期に始まったひとつの様式が、世代から世代を超えて、受け継がれ、同じような様式で造られ続ける。

 土器の作り手は、個人の思いつきで、気分で適当に作ったわけではない。前の世代から伝承された様式や、別の部族から伝承された様式、ことによっては大陸からの舶来品の影響を受けたのではと言いたくなるような、そういう様式を受け継いで作っている

図工でつくったあれ 

 小学生の頃だったか、図工の授業で「粘土をこねて壺をつくれ」という課題が出た。なんの事前情報もなく、いきなり粘土のかたまりを支給され、壺にせよ、と言われる。

 こういうのは非常に困る。

 シンプルなことも難しく考え込む子供だったので、「つくれ」と言われても、なにをどうしてよいか、手をどう動かせばよいか皆目わからないのである。
 何もしないわけには行かず、適当にこねて、適当に潰れた茶碗のような形にし、把手的な塊を付着させて「片付けた」ような気がする。なにかを作ったという気がせず、釈然としない記憶である。

様式を知れば楽しめた、かも?

 今になって、人様に物を教える機会も増え、はたしてあの時どういう具合に促されたなら、あの壺づくりが輝いたのか??
 と、思いを巡らせる。

 そこで辿り着いたひとつの答え。

 縄文土器のレプリカを見せられて、これと同じものを真似てつくれ、と言ってもらえたなら、とても楽しめたはずである

 縄文土器に限る必要はないのだが、「だれか」他の人の高度な手仕事の痕跡がにじみ出るもの。そうした物を目の当たりにした時、
 これはどうやって作ったのだろう?
 どう手を動かしたのだろう?
 手だけではなく、なにか道具を使うのだろうか?
 試しにこれと同じものを作ってみたい!

 という具合にやる気が出てきそうな気がする。

 そして実際に手を動かし、繊細な文様は指だけでは表現できないと気づき、木の棒でもなんでも適当な道具で身体を拡張してみようと、試行錯誤もはじまる。

真似ることこそ創造のはじまり

 真似をすることこそが創造の始まりであるという考えがある。

 創造というのは、孤立した、孤独な、閉じた個、他人や周囲の環境とは無関係に自足した個が、「その内」から何かを捻り出すことではない。

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