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無意味という意味へ誘われる

 ある知人が、いつもこんなことを言っていた。

言葉で思考せざるをえないところに、が入り込んでくる」 

 最初に聞いたときは、何を言っているのかよくわからなかった。

 ただ、何を言いたいのか中身はほとんどわからないが、「言い方」自体に、なにか危うさというか、放ってはおけない感じがあるような気がした。

 言葉と死。

 「言葉」と「”死”という言葉」。

 これをダイレクトにつなげて、どうしようというのだろうか?

 ここに「意味する」ということのひとつの極限を見たような気がした。

無意味という意味

 レヴィ=ストロースによれば「意味」とは、ある言葉を他の言葉に置き換えることである。
 置き換えは「異るもの」を「同じとして扱う」という操作、処理、行為である。であるとすれば、置き換え方こそが大問題であり、置き換え方を巡って論争、紛争、闘争が生じるのもうなずけるのである。人類の文化において、正しい置き換え方と間違った置き換え方を識別するコードというものは予め与えられてはいない。コードのようなものは、置き換えの実践を通じて、ある置き換えを反復し、またある置き換えをタブーとして禁じることを通じて、コードとして自立しているかのような外観を呈するのみである。

 「言葉」を「死」に置き換えるというのは、超巨大スケールの「言い換え」ではないだろうか。

 死はそれ以上先に置き換えを拡張できない、最終的な項になりうる。

 それ以上置き換えようのない最終項への置き換えを許してしまうと、言葉でもってつど個々人にとっては「新しい」いまここの経験や感覚をきめ細かく分節し「続けて」いく試みが禁じられてしまう。置き換えがそれ以上展開できなくなること、それこそ言葉が「死んでしまう」のではないか。

 この疑問を知人に伝えると、そんなことは百も承知という様子であった。

「言葉は記号なんだよ。記号でしかないんだよ。」

 知人は続ける。

「ひとは、記号の外に出ることは、決してできない。」

 そんなものだろうか?と思いながらも更に聞いてみる。そういう言葉を私たちは、他人たちから、もとを辿ればたくさんの死者たちのから強制的に贈与され、勝手に伝承者に仕立て上げられるのである、と。死者たちの言葉が、私が死ぬまで私の口を借りて、自動で喋り続け、周囲に伝染しようとする、と。

 この話なら、私も大いに一理あると思えるところで、そうだそうだと聞いていた。私は言葉の外に出ることはできないということ。そもそも言葉で敷衍される「私」なるものは言葉でしかなく、言葉にするという行為を離れては存在しない。

 問題はその先である。知人は更に繰り返した。

「言葉に喋らされる私は、喉を痛めて疲れ果てているうちに、いつの間にか死んでいるだろう。無数の死んだ他人の言葉の中で、悩み、憤り、高揚しているうちに、気がつけば”私”も、誰かに向かって死んだ言葉を撒き散らして、そうして自分の肉体も死んでいくのだろう。」

 ハイデガーあたりに言わせれば「死」といえば、ひとりの人間を全ての他人から切り離し、一人の孤独な存在にするはずのものでもありそうだが、この知人にとっては、それは言葉の中に囚われたまま「おわる」という意味であるようだ。言葉の中、記号の中で死んでいく手前のように生きることのできない「わたし」には、その外部である「死」はもうなんの意味ももたらさない、と。

 此処から先は私の想像である。この知人、言葉によって自分が「本当の自分」とは違うものに作り変えられていると感じていたようだ。自分が喋ったり、書いたりするという行為を犯さざるを得ないことを心底残念に思っていたようだ。

 この言葉との「疎遠な感じ」の裏側に、「自分」は他人の言葉に置き換え不可能な何かがあり、それこそが本物だという感じがあったのかもしれない。その「本当の自分」は言葉に置き換えられた瞬間に別の何かのまがい物になる。「私」はそのまがい物としての姿でしか他の人の前に現象することはできず、「本当の自分」はもうはじめからそんなものは存在していなかったのかもしれない、と。だから言葉の中に囚われ続けている「わたし」は最初から死んでいるようなものだ、と。

 言葉が「自分のものではない」ように感じる、というところについては私も共感できる部分がある。ただし、そこでひとっ飛びに、ほぼ唯一の「私と疎遠ではない」言葉である「死」を持ってくる。これはどうもうまいやり方ではないように思う。

 言葉という内部と、それに対する外部の区別。

 そして本来的な私と、非本来的な私との区別。

 この二つの区別を重ねたところで、言葉という内部に非本来的な私が閉じ込められ、その外部にあるはずの本来的な私から、切り離されてしまっている、と。

 ここで死というのはおそらく、「私の言葉」がその先で沈黙せざるを得ない、言葉と言葉の外部のキワであるこれを持ってくることで「言葉の内部の私」はその「外」に触れ、「外という意味」を獲得できる、ということだろうか。言葉は死だ、などということによって、知人は到達不可能な外部の本来的な意味へと、自分を接続しようとしているのではないか

 無意味もまた意味である。

 それは意味と無意味の区別を他の何かの区別(例えば「非本来的な私」と「本来的な私」との区別でも、なんでもよい)と重ね合わせる処理であるかぎり、意味するということそのものである。

 その無意味が、あくまでも意味と区切られ対立させられているもうひとつの意味だということを忘れてしまって、無意味は無意味として単独でどこまでも拡がっているもののように考えてしまう。
 そんな地点にあってもなお、それでもその無意味から人間を救い出すものとして「死」というような完全な外部、あるいは外部との接点を持ち出さざるを得ないというところに、それこそ意味の内部に囚えられざるを得ない人間の存在を垣間見せられる気がするのである。

 そうだとすれば、「死」を持ち出すのは誤りというか、乱暴すぎる。異るが同じものとして置き換えていくという試みを、与えられた出来合いの言葉を材料として、「わたし」が試行錯誤、試し続けること。「わたし」の固有性のようなものは、おそらくそこにしか生じない。そして、この試みの連鎖は、死という言葉で先回りして閉じるまでもなく、いずれは閉じられるのである。

おわり

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