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無題、しいていえば、無題。

湿度。まとわりつくような。皮膚。ぐるぐると考えるよりこの頃はしゃきしゃきと考える。というか。それもできない。ぐるぐるしながら結局下にいく。なんだか。ハイフンの問題をずっと考えている気がする。と。と。と。et, et, et.. 2023年ももう半分が過ぎた。接続。比喩。換喩。実際に過ぎたのは半分ではないかもしれないのに。記憶、ひこばえ。冷たい水。日射病。

概念を、意味を、抱えきれない。あれこれと、触手のように系列が伸びていく。雨後の。切断。意味を捉え損なう。今なっているのはビリーアイリッシュのHappier Than Ever。ディストーション。ある移行。リトルネロ。ほとんど雑音のような音楽。

ひとりで孤独に嬉しく立ちすくむ。まだ言えないことが多い。それができれば、と強く思う。結局ここかもしれない。その強度を。泣きたくなる。泣くしかない。ただ言葉を。とめどなく、より、とめどないのは、それまでとまっていたからだよ、と知る。やはり無理だろうと思う。ひとりで。それでいいかもしれない。覆面のシンガーソングライター、その裏で交わされる情事、もうそろそろ決壊しそうな情報の鳥。ひとりで孤独に嬉しく立ちすくむことができるのは、あなたではなく、私なのか。どこまでも。キャンセルした予定。伽藍堂のカレンダー。句読点ばかりの文章。明晰な怠惰。どこまでも歩きたくない、つまり距離ではなく、歩きたいという意志に対しての、どこまでも…したくない。無限定に続く意志に対して、ひたすら否定し続ける、ズレ。

否定は対立ではない。そう、私は問う。「どの位相で?」ある人は答えに窮する。ある人は明確に答える。その両者にあるのは越えられない隔たりではない。位相のずれでしかない。…ではない、は、ではない、のであって、であるな、ではない。星が破裂する。突然のメタファー。詩学。星が破裂したとして、いのちが残らない、としよう。「のこら−ない」。これは残存への対立だろうか。残存することに対立するならば「残らないように破裂する」であって、「残存−破裂」の辺で対立するのか。少しちがう。かなりちがう。

「のこら−ない」のは、生存と消滅において、生存に対する唯一の切断として死滅を考えるがゆえである。しかし、と思う。本当に唯一、一度きりの切断として死滅なのか。我々はいつも死に損なっていて、というよりむしろ、私たちは本源的に死を有していないのではないか。対立する前にむしろ、生の方から退けられる無限定の死が? 与えられた命に対して対立するのは消滅ではないのだとすれば、死がいつも未然であり、他性それ以外の何者でもないから…なのだとしよう。ところが私たちはいつも死んでいるようだ。疲弊、消尽、夢想、追憶、断片、句読点、比喩による生き直し。そうだ、単純なことを…比喩は接続ゆえに生き直す能力だ。そこで途切れただろう言葉は比喩によって、あるいはメトニミーか、その接ぎ木で次の逃走線が生まれる。ゾンビは次に芽生える薔薇の芽である。ゾンビ的エクリチュールは腐敗臭ではなくむしろ噎せ返るようなガルバナム、切り立ったひこばえだろう。あるいは菌類、死にゆく生命が身を委ねる最後の大地で、菌床に覆われ、胞子が飛び、その全体性、その匂いはむしろ痛切ないのちそのものだろう。

死にゆくときにこそ私たちのメタファーは最大化するのか。それとも最小化するのか。「愛していたよ」、と遺されたその言葉はその最大化と最小化のはざまを何度も激しく往還しながら。〈愛していた=恨んでいない〉という図式はここで成立しない。恨んでいなかったとして、それは「恨ま−ない」という恨むことの否定が、〈愛/恨:する/しない〉の辺で対応するわけでもない。憎んでいない、嫌っていない、いずれもそうだ。

この基本的な非対称性はそもそも生/死の非対称性によるものだろう。する/しない、はそもそも対立しない。

そう、だから… 二重線で消された予定、ひとりで嬉しく孤独に立ちすくむこと、それらと忙しさ、政治、パーティー、満員電車、といった要素は対立していない。マイノリティとマジョリティは対立していない。根本的には… けれど、伸びあい絡み合った新緑は見かけ上の対立をいくつも作ってしまう。できないこと、というより、したくないこと。したくないから、で迂回することをどこまで許していいのだろうか。その迂回で生きていけるのならば、それでいいのだけれど。

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