九段下へ向かう電車のなかで

ここ3ヶ月ほど考えていることがある。「いいじゃん、めんどくさいし…」という言葉の持つヘテロセクシュアリティについて。飛び飛びの断片から、ほんの少しだけ・少しよりは多く・多くよりは少し。

どこから何を書こうとしたのだろう、悩みながら、ご飯を食べ、あるいはドラマを見たり、本を読んだり… いくつもの断片と継続と中断に引き裂かれながら、どのどれもが根源的に同じ違和をささやく。し損ねることについて。いつも何かをし損ねていて、それゆえに、私たちはまだ何かをしようとしていて、その潜在性を備えている。愛もまた、し損ないをはらんで、あなたを知り損ねているからこそ(知らせ損なわれているからこそ)、その備給された潜勢力と、想像力という形式を撚り合わせながら、ほんの少し後か先で、次に発されるべき言葉のことをかすかな未来の匂いとともに喜ぶ。

私はあなたに愛されている、といってよい。その確証をほんのわずかな瞬間であれ、感じることがあれば、それで私とあなたの「はかないチャンス」における邂逅は果たされるのか。

もしかしたら、と思う。その邂逅が抱えているのは、本質的な孤独のトラウマであり、「結局、人と人は分かり合えなくて、慰め合うことしかできない」と思っているからなのかもしれない。刻み込まれた共約不可能性をまざまざと思い知りながら、孤独を離そうとしていないのかもしれない。

芸術というものの形式を考える。ベケットの「名づけえぬもの」を考える。わずかな瞬間に生じる、空と大地の往還運動と、その中空における「と」の遊離(ドゥルーズ)。ドゥルーズは、ゴダールの映画を「との方法論」と呼び、接続詞の「離接的綜合の包括的用法」という言葉で「あれであれ、これであれ」を示す。

あれ「と」これ「と」それ「と」… その「と」がプルーラル化し、詩性を内と外の両方で(量子エンタングルメント)、行使しながら、何ごとかを指し示すとき。

その行為はクィアな目線であり、アンチ−something であり、役に立たず、無意味と非意味と有意味との混濁のなかで、どれでもありえない適切な濃度をもち、プレイヤー(アクター)同士のなかで、交流電燈としても、ジャンクションとしても、句読点としても機能する。だからこそ、人は言う—— "who cares?"。 誰が気にするんだい、そんな役に立たない装置を。

役に立たないものものを考える。たとえば先天性の奇形で指がもう一本あるとか、セクシュアルマイノリティであるとか(たびたび揶揄されるように、男性同士の愛は役にたたないとか、子供は産めないとか)、タブローにおけるマチエールだとか、17世紀の西洋絵画におけるハエの存在だとか。

役にたたないことを行為し、創造し、参与しながら同時に逸脱する現代アートのアクターは、そこで社会的なるものを分有するのか。やはり、グロイスやランシエールが指摘するように、政治的な共同体として考えなければならないのか。役にたたないものにおける権利のことを考えるとき、必ず強権性や被害者、受容構造、つまりは、ベクトル付きの視線について、検討する必要が出てくる。

「きみは役に立たないものを作っているんだね、面白いね」

「そう、これは眼をチューリップの模様にする装置なんだ、同時にアメンボが雪を知るための戦争でもあるよ」

「つまり、こういうことかい? 星までの距離を測定するために、きみは3ℓの涙を流したんだね」

「(首を何度も縦に振る)。」

「要するに、そういうことだったんだね。ぼくはきみと親しくなりたいと思っているよ」

つまり…要するに…たとえば…。 カテゴライズし、サマライズし、集約する浄水器のような発言について。それ自体が持っているヘテロセクシュアリティについて。ある次元での文脈に照らし合わせながら、別の物事を理解しようとするときの全射的な視線。

https://mathlandscape.com/bijection/

複素関数における解析接続。homotopicな空間。ある関数が正則であるとき、そこから繰り返し可能になる延長について。

Ω⊂ℂを領域とし、f,g:Ω→ℂを正則関数とする。Ω内の点列{zj}j∈ℕとz∈Ωが存在して、
・ limj→+∞zj=z
・ 任意のjに対して、f(zj)=g(zj)
をみたすとする。このとき、任意のz∈Ωに対してf(z)=g(z)が成り立つ。

つまりきみはこう思うんだね、と述べ、合意する過程の連続で、複素関数における解析接続が何度も繰り返されるように、あなたの界域とわたしの界域の用語を丹念に写像し、鍵穴積分経路を形成していく。その鍵穴状の、ほんのわずかな隙間は互いに、見事に処理されていく(コーシーの積分定理)。

一方で、役にたたないことそれ自体が、マクロな社会の中(アートワールド)においても鍵穴の積分経路を形成している。それ自体「はかないチャンス」であり、わずかな隙間であるから。

しかし、役にたたないことが集まり、声を重ね、言葉を重ね、集合と雑踏と喧騒のなかである種のハーモニー、交響曲を作り出していくとき、いつの間にかその積分経路における隙間は無視されてしまう。「いいじゃん、めんどくさいし… who cares?」

あるパフォーマンスを鑑賞するときの台座について。確かに人間の身長はおおよそ170cm、150cm前後であり、それに相応しい空間が確保できていれば、何ごとかを視認することはできる。一方、そこで遮られる視線について。目の前に、あなたの背中があって、汗を感じて、息遣いを知りながら、密閉されゆく満員電車。その鑑賞体験は、本当に「はかないチャンス」において適切なのだろうか? 身体を何度もよじらせながら、視線を投げかけようとし、断片的な動きを認める。大音量のなかで、急に話しかけてきた誰かの声に耳を傾ける。聞き返し、見返し、やりかけて、中断されて、もう一度試みて…

交差点でぶつかったあなたのその肩の衝撃を覚えていて、地面が平らなことを思い出したりする。足並みが揃えられたコンクリートのジャングルで、形成された通行域。

めんどくさいのかもしれない。本当に面倒なことではある。そこで聞き逃される声や、助けようと思って助けられなかったこと。会場にスロープは設置されていたけれど、あの密集のなかで、車椅子を使っていた人は大丈夫だったのだろうか、と想像する。望んでここに集まってきているのだから、自己責任だろうか。

事故のことを考える。決められたスケジュールにあわせて動く必要があったし、分担できなかった諸々の仕事についても反省する。あるいは遅刻について。アルコールの摂取やタバコによってしか(あるいは睡眠によってしか)得られない休息や快楽はもちろん肯定されるべきだし、それを否定することはまさしく鍵穴状の積分経路を無視することになる。

本気でやるからこそ、どちらかを選ぶしかないのだろうか? 時間通りに到着することは、やはり綺麗事でしかないのだろうか? 適切に物事を進め、丁寧に、軽やかで、それでいて慎重に、言葉を重ねていくことなど、綺麗事で、本当に…意味のない…面倒なことだろうか。

騒ぎ、声を張り上げ、言いたいことを言い、強権性と剥奪、そして反省の繰り返しのなかで、マイノリティの権利を獲得していくしかないのだろうか? あるいはポスト・インターネット時代における新しいヒューマニズムも、この経路を選択するしかないのか? 何を分有し、何を秘匿するか、という根源的な問題を、綺麗事で考え、進めることなど、やはりできないのか。失敗するしかないのか。

失敗しないように試みることだけが良くて、丁寧に軽やかに歩みを進め、舗装されていない道で、身長など不要で、ルッキズムの荷をおろし、ともに疲れ果てながら、言葉を重ねることなど、面倒かもしれない。

理論のことを考える。それ自体が持ち合わせている、緩やかな時の流れ。諦めてしまいたくなる、あの雑踏を。

やはり、アーティストやキュレーターは在廊していて、そこで発生する話が未来を切り開くことも確かなのだ、悔しいほどに。その歪みをみなみな知っていながら、誰もそれを離すことはしない。ベンヤミン以降、アウラなき芸術を高らかに語りながら、誰もアウラを離そうとしない。アウラを頑なに信じていて、だからこそ展示を繰り返し、言葉を発し、現代アートに関わっているのだろう。それは私だって同じことだ。

それこそが、ヘテロセクシュアルなのだと思う。アウラをいつまでも信じていて、コミュニケーションの希望を信じていて、人と人は対話で繋がれる、と思っていること。あるいは肉体で、欲望で、身体性で。

誰も肉体を手放さない。肉があるから思考が可能で、綺麗事を言えるのだから。たとえば肋骨から骨盤にかけての流れや、尺骨の細さについて。そこに内在する潜勢力が言葉を可能にして、視線を可能にして、はかないチャンスを可能にするから。

家にいて、あるいは図書館で、ある本を読みながら… ヒトはたとえば言う、話しかけないで、集中したいから。

集中しながら、集中し損ねて、され損なって、どうしてその「し損ない/され損ない」を喜ぶのだろうか? あなたの話を聞きたくて、周りがうるさくて、何度もあなたは聞き返していて(あなたの耳はとても健康なはずで)、そこで形成される通行域でしかあり得ないチャンスが目の前にあって、なのに、集中し損なう。事故を誘発する。遅刻は繰り返される。

どうしようもなくて、泣きそうになる。私が遅刻したわけではない(私も遅刻はするし、申し訳ないと思う)にせよ、その事実に、立ち尽くして、許すしかないのだ、と思う。この頑ななまでに、許すことしかない社会を…

許すことと、ヒトや社会が本質的に抱えている原罪を、認めるしかないのだろうか? マイノリティもマジョリティも、許しあい、侵犯しあい、感染させ、感染され、汚染し、汚染され、その反復で手触りを掴むしかないのか。ごめんなさい、と、ありがとう、の反復で。

もちろん、それなしでヒューマニティは形成できないし、その重みはよく分かっている。つもりだ、とは言わない。私は分かっている。私の主語の限りにおいて。

ただ、芸術というチャンスの内側にでさえあっても、チャンスは鍵穴状の積分経路を持っていて、社会があって、政治があって、恋愛や性愛や許しや、それらをごくごく当たり前に、したり顔が、憐憫と悔恨と喜びの入り混じった顔が、組み敷かれている。電車に乗り、人混みのなかを掻き分け、時間を守り、時間を忘れ、内側からうごめくほんの少しのアレルギーのように。

アレルギー反応が、結局、治癒だとか壊疽といった身体的な(ヘテロセクシュアルな)帰結を持つこと。アレルギー反応が正則な関数として解析接続されること。「あのときこんなことがあってね…笑」

物語行為が持っているトラウマからの脱却。作品の説明。つまり、要するに、たとえば… 集中し損なう。事故を誘発する。遅刻は繰り返される。綺麗事はまだない。まだ… まだ…? いつか可能になると思っているのか? いつか、という言葉もまた、ヘテロセクシュアルだ。いつか。

繰り返される…… ドゥルーズは自殺を選んだが、あるいはプリモ・レーヴィも、三島由紀夫も… 自殺が持つ、ネットワークへの依存。誰かが私の死を悼んでくれて、微生物が分解してくれるだろう、という盲信。もう何も可能にならないのだ、ただ微かに…… だから私はベケットのことを信用している。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?