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終戦75年の夏。

毎年8月になると第二次世界大戦に関する番組が多くなるので、ついつい見入ってしまいます。戦争を経験した世代がだんだん高齢になっていく中、自分が聞いた戦争のことを少しでも残しておきたいと思い書いてみました。

戦争は誰も幸せにしない。戦争のない世界を当たり前に。
そのためには、まず知ること感じることから。

終戦の年に満州で生まれた父と原爆投下後の長崎で生まれた母。そんなルーツから幼少期から戦時中や終戦後の話を聴く機会が多い環境で育ったような気がします。

小さいときの記憶で今も鮮明に覚えているのは、家族で戦争の展示会のようなところに連れていかれたこと。小学校に入る前後(昭和から平成になるころ)くらいだったような気がします。戦時中の暮らし、住居、衣類、食べ物などが展示されていて、当時の食糧だった糒(ほしいい・乾(干)飯とも書く)を試食できるコーナーがあり、口に含んだほしいいの硬くて味気ない感じは今でも残っています。ミニシアターではアニメーション映画の上映もしていて、「夕やけ小やけの赤とんぼー」と自分と同じ年くらいの主人公の女の子が歌っていたメロディや映像も残っています。後で思い返すと「ちいちゃんのかげおくり」だったかもしれません。

小学校1年生の頃、学童保育で「はだしのゲン」を読んでいた時期があります。その頃、近所の公園で遊んでいると、近くに住むおばあちゃんがやってきて、「私は広島出身でね、原爆が落ちたときは女学生だった。たくさんの人が血だらけで熱い熱いと言って川に入っていって、たくさんの人が浮かんでいた。あの光景は忘れられなくてね・・・」とよく話してくれました。今思うと認知症だったのかもしれないけれど、何度も何度もその話を聴きました。話はじめにすぐ聞いたことがある話だとわかるのですが、それでも、子ども心に「その話はもう聞いたよ」と遮ってはいけないような気がして、いつも最後まで聞いていました。
(認知症って、心の奥底にしまっていた大切な記憶を、次世代に繰り返し伝えて記憶を定着させる仕組みなのかもしれないと思う・・・)

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小学校の修学旅行は広島へ。中学校の修学旅行は長崎へ。
語り部さんがお話してくださった当時の体験談は今でも心に残っています。

嫁ぎ先の長野のおじいちゃんおばあちゃんからも、戦時中の話をたくさん聴きました。憲兵として満州へ行ったおじいちゃんは2016年に96歳でなくなりましたが、晩年に戦時中の話をよくしてくれました。詳しくはコチラの記事にて。

昨年、2019年には戦時中に看護師をしていたおばあちゃんが98歳で亡くなりました。大正生まれで「この世界の片隅に」の主人公すずさんと同じ年頃のおばあちゃん。故郷の長野を離れ、看護師として関西へ働きに出たそうで、「衛生兵さんが京都の大丸に連れていってくれたことがあったよ」など、若いころの話もときどきしてくれました。このおばあちゃんはいつもカラッとした人柄で、前を向いて逞しく歩いていく人でした。悲惨な話はあまり聞かなかったなぁと。

明治生まれの実の祖父母については、本人達と戦争について話したことはなく、父や母やおば達から当時の様子を聞いて育ちました。

祖父の仕事の関係で、満州へ家族で行くことになったこと。満州に行くときに親戚に預けて行った着物や大事なものは、日本に帰ってからも全て戻ってこなかったこと。満州から引き揚げてから訪ねて行った、吉祥寺にあった祖母の父方の家は、曾祖父が亡くなり戦火のどさくさで人の手に渡ってしまっていたこと。戦争では本当にたくさんのものと、人に対する信頼を失ったようで、祖母はとても辛かったようです。
(いつも不機嫌そうでとっつきにくいイメージだったのは、そういう理由があったから・・・と後で知りました。)

小学校にあがる年が終戦の年だったというおばからは、「そういえば、満州にいたときに、家にロシア兵がやってきて、父に拳銃を突きつけて何か話をしていたことを思い出したわ。母が絹の上等の着物を渡したらそのまま帰っていったけど、銃で撃たれたらどうしよう・・・ってすっごいドキドキしたよ。」「引き揚げまでの1年間、子ども達が教育を受けられるようにと、父が中心になって先生を集めて学校のようなものを開いて、そのおかげで小学校1年生からではなく、2年生からちゃんと編入できたんやで。」というエピソードも聞きました。

長崎のばあちゃんは、いつものように畑仕事に出ていたら、黒いキノコ雲が見えたそうで。市内に住んでいたおじさん一家は跡形もなかったそうです。じいちゃんは中学卒業後、三菱に勤めて、戦争が激しくなり自分から志願して兵学校へ入学。卒業後台湾に出兵し、台湾で終戦を迎えてすぐに帰国できたようで、帰国後すぐに結婚して子ども達が生まれたそうです。

話を聴けば聴くほど、大変な状況の中でも、それぞれに最善を尽くして生きてこられたのだなぁと。本当に頭が下がります。


昨年、日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞された湯川秀樹さんの生前のお話を伺う機会がありました。戦後、アメリカでアインシュタインと出逢ったとき、アインシュタインは自分の発見がもととなってできた原子爆弾で広島と長崎を破壊させてしまったことを、涙を流してあやまったのだそうです。

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この出逢いがきっかけになり、ノーベル賞受賞者たちによる平和宣言『ラッセル=アインシュタイン宣言』が実現しました。

「世界は一つ」の石碑は、国立京都国際会館をはじめ、日本各地に数多く残っています。

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5年前、終戦70年の夏に、友人のお父さんが亡くなりました。広島で行われる終戦70周年の催しに向かう道中の事故でした。亡くなられてから、その方が京都大学で原子力の研究をされていたこと、これは人類が手に負えるものではないことを痛感して、平和のための活動を積極的にされていたということを知りました。

たくさんの先人の思いを受けとって、みんなが大きな力におびえずに、隣人と手をとりあう世の中に向かって。

一日一歩ずつ。進んでいきたいと思います。

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