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20230802ふかいメルマガ第10回 YRK&って何やってんの?(前編) 

ふかいメルマガ 
おはようございます!
今回でメルマガも10号になりました。
0号を入れると11号目なんですが、
その0号で、皆さんにメルマガで書いてほしいことを質問しました。
回答で一番多かったのが、「ウェーブでやりたいこと、めざしたいこと」、だったのですが、これはもうしばらくお待ちくださいm(__)m。
2番目に多かったのが「YRK&ってなにやってんの?」。でした
というわけで今回のメルマガは、

「YRK&は、なにをやっている会社なのか?」です。

前編・後編の2回に分けます

あらためまして、株式会社YRK and、125歳です。
(2018年9月に株式会社ヤラカス舘から社名変更しました)
創業は1896年 明治29年。
日清戦争の終戦1年後、日露戦争開戦の8年前のこと。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」、その時代に創業しました。
(司馬遼太郎の小説は大好きですが、その中でも坂の上の雲は特に好きです!)
大坂中央区瓦町に本社があり、その場所は125年前のほぼ創業の地です。
盆明けの8月19日からは、ウェーブの大阪営業所がYRK&本社ビルの2階に入ります。

●社名の由来と引き継がれる意思

おそらく皆さんが気になるのは、創業から123年間名乗った、「ヤラカス舘」の由来。
創業者の中許栄之助が起業時に、船場の人足の舟歌「おーいやらかせ、どっこいしょ」を聞いて、「いっちょやらかしたろか!」という決意で名づけたそうです。(なんかやらかした?の悪い意味とちゃいまっせ)

そして、館ではなく舘なのは、当時ハイカラだった鹿鳴舘から取ったそう。
明治のこの時代に、この社名をつけた中許栄之助はすごいと思います。

私は入社以来、ほとんどの年数を「ヤラカス舘」で仕事をしてきましたが、例えば新規営業で電話をすると、「株式会社ヤラカス舘の深井と申します」と言って、一度で伝わることはまずありません。
「はい?もう一度社名をお願いします」「やらかすかんです」
「わらかす・・・?」
「ちがいます、や、ら、か、す、か、ん、ヤラカス舘です。」
「ワ、ラ、カ、ス、カ、ン、ワラカスカンですか?」
「いや、や!や!です」
「や?あ、ヤマザキパン!?」「いや、ヤは、あってますが・・・」

これ、私が本当に経験し話しですよ。
初めて電話をすると、だいたいこんなやり取りです(すごいでしょ)。

そのうえヤラカス舘という社名には、業容がありません。
ヤラカス印刷とかヤラカス広告とか・・・。
初めての営業では、何を商売にしているのか、何を売り込みに来たのか、説明するのが大変です。
現代でも大変なのに、日清戦争のあった明治では、もっと大変だったと思います。

さて、125年前の創業時は、店先に掲げる「漆看板」、チラシの原型「引き札」をデザイン製作していました。
大阪本社にも東京オフィスにも現物を置いていますので、ぜひ見に来てださい。

漆看板は、ペンキの発明で絶滅しますが、当時のヤラカス舘はペンキの看板はつくりませんでした。
引き札はチラシへと移り変わりますが、チラシ屋になりませんでした。
太平洋戦争中は、様々な物資が不足したこことで、紙が高騰しました。
ヤラカス舘の在庫の紙は、印刷せずにそのまま売れば、儲けることができたのですが、当時の3代目中許忠夫は、金のなる紙を売らずに「疎開」させました。
それは、朝日新聞に勤めていた創業者、中許栄之助が「同じ紙に印刷をしても、印刷会社と新聞社の違いは何か?」と言っていたことにあります。

印刷会社と新聞社の違いは、紙に情報という付加価値を載せているか否かだというのです。
その意思を受け継いだ3代目中許忠夫は、ただの白い紙で儲けるという意思はまったく無く、むしろ戦争が終わった後に、この紙に人々が求める情報を載せるために、疎開させようと考えたのです。

この創業者の意思は、今のYRK&にも根付いています。

ですから、YRK&では仕入れたモノに利益を乗せただけで納品するという問屋商売はやりません。
(問屋という業種を否定しているわけではないですよ)
このように、ヤラカス舘は123年間、時代に合わせて業容を変えてきました。
社名に業容が入っていないため、やることが縛られなかったのだと思っています。

それは、ウェーブという社名も同じですよね。
私は、ヤラカス舘という社名に創業者の名前が入っていないところも好きでした。
創業者は、命をかける思いで起業します。
だから会社に自分の名前を付ける気持ちはよくわかります。
でも、ホンダを創業した本田宗一郎さんが引退する時に、「ひとつだけ後悔がある。社名に自分の名前をつけたこと。会社は私のものではない」と言い残したそうです。

●デザインとマーケティング

戦後、ヤラカス舘はデザインに力を入れます。
そしてヨーロッパから当時の若手デザイナーを数人招聘しました。
その一人がドイツ人、ヘルムート・シュミットさん。

彼はヤラカス舘のグループ会社NIAで、大塚製薬のポカリスエットのロゴとパッケージをデザインしました。
シュミットさんは、著名なタイポグラファー、グラフィックデザイナーとして名を残し、2018年に日本で生涯を閉じました。
YRK&でも、クリエイティブで高い付加価値を生み出しました。

ところで、私がヤラカス舘に入社したのは、バブル景気真っ盛りの頃で、広告代理店全盛期。
CMプランナー、コピーライター、マーケティングプランナーと言うカタカナ職が、ちょっとかっこいい感じの時代。
そんな中、当時のヤラカス舘は、「マーケティングは企業の経営に必要な4つのMの1つ。4Mの統合が必要だ」と会社案内に書いていました。

4Mとは、
huMan 人
Marketing マーケティング
Merchandise 商品
Management マネジメント

今でこそ、CMO(チーフマーケティングオフィサー)が経営の中枢に置かれるようになりましたが、30年以上前から、「マーケティングは調査や広告の手段ではなく、経営そのものだという考えは、他の広告代理店にない考えでした。
かっこよさが先立ってマーケティングプランナーになった私にとって、この考えは頭をどつかれたような衝撃を受けましたが、同時に共感し腹落ちしました。
いち早くヨーロッパのデザイナーを招聘したのも、アメリカへ行き、
「マーケティング」という新しいビジネスのタネを日本に持ち帰ったのも、3代目中許忠夫、1960年代のことです。

●理想と現実のギャップ、それが原動力

少し脱線して、私の話しになりますが、
マーケティングは経営そのもの。4Mの統合。それがあるべき企業経営だと信じていました。
とはいえ毎日の仕事は、セールスプロモーション企画です。販売促進策。
マーケティングと経営なんて言葉だけで、結局得意先から依頼されたキャンペーン企画や会員カードの入会促進策を企画する。
私は、これがマーケティングの仕事か?と、上司や、得意先にまで反発しました。
毎週企画書を要求してくる大手流通の販促課長。
私がつくる企画書は、自分の会議用資料に使うものでした。
それが毎週なので、ある時会議で困らせようと、ページをバラバラにして提出して、怒らせました(笑)。
また会員カードの課長から依頼のあったクレジットカードの入会促進企画。
私が提案したのは、その企業のクレジットカード戦略を否定して、他社の戦略を見習うべきだという提案でした。
依頼した担当課長は激怒して、私は出入り禁止、その仕事も無くなりました。
またある時は、得意先のセミナーに講師で招かれたのですが、態度の悪い宣伝部長に私が腹を立て、
ファイルでテーブルを叩いてしまい、ファイルの中身が宣伝部長の隣に座っていた専務の近くまで飛んで行ってしまい、
しかも講師の私は、セミナー途中にも関わらず帰ってしまい大問題。
私の出入り禁止では済まず、ヤラカス舘との取引がすべて中止されました。この時はホント大ごとになりました(汗)。

この時こそ、さすがに・・・と思いましたが、「あんたのおごった鼻をへし折るのに、高い授業料払ったわ」と当時の社長(現会長)に許してもらいました。
他にもいろいろありますが、こう書いていてつくづくひどい社員だと、自分で思います。よく今までクビにならなかったと思います。
でも今の私は、全く違いますよ。人間って変わるのものだと思います(^^;

ヤラカス舘は、常に時代の少し先のビジョンを持ち、その方向に進もうとするのですが、現実はそう簡単に変わりません。
現場で仕事をする私は、そのギャップに不満を持ったり、あきらめかけたり、逆に腹を立てたりしていました。
20代の駆け出しのプランナーの私は、はるか上の上司、当時の取締役マーケティング本部長に、「私がやっているこの企画がマーケティングですか?」と、抗議したことがあります。

本部長は一言でした。「深井、誰から給料もらってるのかわかってんのか?商売優先に決まってるやろ!」
常に理想と現実にはギャップがあります。でもそのギャップを埋めながら125年間進んできたのだと、
今この立場になってよくわかるようになりました。

その時代の理想を見出し、理想と現実のギャップを埋める力の源泉が、「ヤラカス舘」という社名にあり、それは「YRK and」になった今でも受け継がれています。

というわけで、今回はここまでにします。

次回、今のYRK&についてお伝えしたいと思います。

漆看板や引き札について
https://www.yrk.co.jp/company/tradition/

深井賢一

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