見出し画像

なんか、適当な方がよくない?

 私の人生を振り返ってみると、本気で取り組んだことは大体失敗している。もっというと、本気で向き合ったからにはやり遂げなければという感情を持って挑んだことに関して失敗している。スポーツ、受験、人間関係、人前での発表など読んだ人にとっては大したことないじゃんというような瑣末な出来事なのかもしれないけど、たくさんの失敗をしてきた。その経験から題名にもある通り、適当な方が良くない?と考えるようになった。ただし、それは真剣に取り組まないことが良い、脱力してる自分がかっこいいというような中二病のような意味ではなく、力の加減を上手くコントロールできたら良いよねという話。

  使命感が頭を支配すると焦り生じてしまい、周りが見えなくなる。その状態を隠そうと取り繕い、自分じゃない自分をみせようとする。そうして本来の自分だったらできるはずだった柔軟な発想や先を見据えた思考ができなくなり、結果として失敗というオチになるんだと思う。同じような感じでシンジくんもニアサーを起こしたんでしょ。こんなこというとニアサーは結果だからおじさんに怒られてしまいそうだけれど。話を戻すと、そんな状態に陥ってしまうまで本気になるよりは、もっと手前の方の自分の出せる力を出し切れるところで物事に取り組んだほうがいいんだろうなと思う。本気になれることはもちろん良いことだと思うけど、節度を守らないと却って毒になる。

 そうして失敗を繰り返していくうちに自信を喪失し、負のループにハマる。ついにはニヒリズム的な思考に溺れてしまう。生きることはクソだし世界もクソとなるので本当に良くない。そこに辿り着いた人々が努力は報われないと言っているのかもしれない。同情はするがそんな下らない思想に人を巻き込んじゃいけないと思う。

 その節度ってどこなの?という話になるが、私は素の自分でいられる状態の範囲内がそれに値すると思う。だから適当なのだ。リラックスしている状態の時は自分を取り繕って良くみせようとはしない。話の内容だって吟味されすぎないから適当になり、頭の隅から隅までの引き出しが開けられる。吟味されて弾かれるのは例えば倫理的におかしいとか道徳的でないとかそういうこと。私が経験してきた中で、やはり適当にやってきた自分はいい結果が得られている気がする。例えば人間関係でいうと、お付き合いしてきた異性との関わりの中でそのようなことがあった。面白がってくれていたらいいやくらいの気持ちで適当に話をしていた時の私は、割と好かれて長く続く傾向がある。一方でこの人じゃないとダメだと思って本気で向き合ったつもりでお付き合いをした人に限って、すぐに別れている傾向がある。人それぞれ相性が違ったんだよと言われたらそれまでだけど、でも、何かしらの相関はあったんだろうなと思う。

 色々と書く必要のないことまで書いたけど、適当に物事に取り組むことはやっぱり大事と思う。正直者が馬鹿を見るじゃないけど、本気でやったつもりなのに報われなかったら嫌じゃんね。出しうる中で最高の人生にしようぜ。以上。再見。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?