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d180a7a7かく語りき(勝手に語るな)

 普通に生活することは難しいのだとそれに挑戦する度に思う。そもそもここでの「普通の生活」とは何かという話になるが、朝起きて夜に寝て、3回のバランスの取れた食事をして、仕事に行くとか学校に行くとかして、お風呂に入って、掃除をして、勉強をして、趣味をして、運動をして、友人と遊んで、必要なものを買い物して・・・と勿論これを全て1日にするわけではないが、こういった事々が私は、特別な生活ではない「普通の生活」だと思う。

 そもそも何故、私が普通に生活することが難しいと感じるのかと考えた時に、未だ人生に希望を見出せていないからだと思う。人生という大きい括りで言えば、いずれ自分は死ぬのに、何の為に生きているのかということ。人生は有限であり、終わりがあるものだ。終わりが来るのにも関わらず、何故希望を持つことができるのだろう。人々はそれを疑うこともなく、日々を過ごしている。いや、疑ったとしても、邪な考えであるとかき消しているのかもしれない。それはさておき、小さな括りで日常を考えた時に、成し遂げたいことが存在しないこと。多分これは、いずれ死ぬのに・・・という考えが根底にあるからそうなってしまうんだろうなと思う。

 そんな自分にとって、普通に生活することは毎日との闘いなのだ。

 思うに、生きるとか成し遂げるとか目標とかそういうゴールみたいなものって、自分がやりたいからや成りたいからという内発的動機付けに加えて、「誰かの為に」のような自分以外のヒト・モノ・コトの為という大義名分が必要なんだと思う。例えば戦争で勝つというゴールに関しては、自国の為にとか親のためにみたいな理由があったんだと思うし、お金を稼ぐというゴールに関しても、第三者から映る自分をよりよくしたい、つまり第三者の意識に変革を起こすみたいな理由があると思う。こういった事例は、枚挙にいとまがない。

 私にはそんな大義名分なんてものは存在しないため、自分が生きるための生活している。だから闘いなのだ。闘いを挑んでは負け、挑んでは負け、偶に勝ってとそんな生活の繰り返し。勝つときは決まって大義名分があるとき。常勝なんてことはない。常日頃負けているのにも関わらず、稀に少額勝ってしまい依存してしまう賭博者にさえ思えてしまう。私が賭け事にハマっていたら、今頃エスポワール行き。限定ジャンケンにて開始5分で負けて地下労働に勤しんでいることだろう。

 閑話休題。色々書いたがニヒリズムを説きたい訳ではない。そんなものは名だたる思想家達が語り尽くしているはずだ。そして、説いたところで幸せになんてなれないと思う。寧ろ、誰かの幸せの見つけ方を説きたい。綺麗事、偽善、欺瞞と罵られるかもしれないが、不幸になって良い人などいる訳がないのだ。

 私もいつかは何かを見つけられたらいいなと思う。そうして生まれてきてよかったと、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみたいと思う。みんなも自分自身の何かを見つけてみてね。以上。再見。




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