对不起 - duìbuqǐ -
タイトルにもある、对不起は中国語で「ごめんなさい」を意味するらしい。これで私はですよ、「你好」「謝謝」「我愛你」「好」「对不起」「再見」の6つもの中国語を習得し、挨拶、感謝、愛を伝えること、褒めること、謝罪、またねの6種類の会話が中国語でできる、礼儀が良し子◎になりました。そのような機会に際した場合、中国語での「おやすみなさい」はまだ言えないので、夜更けまでには何が何でも「再見」を使って逃げようと思う。幾度かそれを続けていると、シンデレラのように魔法にかかっているのかもと勘違いされるかもしれない。
・・・と余談は置いておいて。
「〇〇はNG!」や「絶対に〇〇!」といったような言葉を見聞きする。詳しく開いてみると、確固たる根拠が無いこともあって、それを許してなかったり、それ以外を許してなかったりするのはあんただけじゃんと思う。それ以外にも独断や偏見が世の中にはたくさんあって、「〇〇(場所/もの/こと)は〜」とか「男性は〜」「女性は〜」とか、ひとつひとつ、ひとりひとり、それぞれに特性があるのになあと思いながら、人知れず嫌な気持ちになっている。その嫌な気持ちというのは、怒りなのかもしれないし、やるせなさなのかもしれない。前回と同様に感情の言語化をしてみる。
そもそもどうして嫌な気持ちになるのかと考えてみたときに、今まで「かくあるべし」に揉まれながら生きてきたことが要因の1つにあると思う。遡ると、「異性と関わるのはおかしい」「方言がおかしい」「アニメみてるのはおかしい」「髪色が明るいのはおかしい」など大きさに差はあれど、投げつけられた言葉は枚挙に暇がない。その言葉たちは、植物が地に根を張るように、じんわりと私に染み込んでいった。
「かくあるべし」を投げる人間は、悪意は持ち合わせておらず、酷い時にはそれが人生における「正解」だというかのように、自分の世界での正義を振りかざしてくる。それが誰かにとって「正解」だったとしても、誰かにとっては「不正解」なのかもしれないのに。そんなことはお構いなしに、自分にとっての「正解」を人に押し付ける。例え私の選択が「不正解」だったとして、誰にも迷惑なんてかけてないのにね。
人生に正解なんてものは無く、人によって善いとか悪いとかは変わる。「死ぬことは良くないこと、怖いことだ」ということが普遍的な概念として存在するけれど、誰も知らない死後は、素敵な世界が待ち受けてる可能性もあって、死ぬことって実は善いことなのかもしれない。もっと身近なことでいうと、自分のお気に入りのものは、誰かのフィルターを通すと酷く醜く映っているのかもしれない。多分、個々人の選択した善い悪いの軌跡が「個性」というもので、「善い」の選択がそれぞれの人生にとっての正解なんだと思う。だから私はその選択を尊重したいし、私自身にとっての「善い」を選択してあげたい。それでこそ、私は誰かの一部ではなくて、私のための私なんだと胸を張って言えるようになるんだと思う。
私が書いてる諸々も、独断と偏見で押し付けじゃんと言われたら、それはそうなのかもしれない。だけど、でも、私は、自分に関わってくれた人たちに対してはできるだけ寛容であれたらなと思う。ただ、寛容であることは無関心であることにも繋がると思うので、その点は留意したい。みんなも自分を信じて、自分にとっての「善い」を選択してあげてね。以上。再見。