死にたいというよりいなくなりたい
初投稿。
多分最初は自己紹介なり運営方針なりを語ることが多いのだろうけど、堅苦しいのは苦手なので、取り敢えず書いてみることにした。仰々しいタイトルだけど、別に自死を示唆するとか教唆するとかそういう話ではない。少しでも同じ想いの人や苦しみを持った人が救われたらそれでいいかなと思う。
私は、何か嫌なこと、辛いことがある度に「死にたい」とか「消えたい」とかそういったワードが頭に浮かぶ。だけど、行動に移すことはないし、本当はそう思っていない、願っていないんだと思う。そこで、何か変わるんじゃないかと考えて、その感情をできるだけ言語化してみることにした。
具体的にどのような瞬間に上記のような言葉が思い浮かぶのかと考えたときに、1番多いのは人間関係かなと思った。人と関わっているときに、相手の行動、言動、表情から多分こう考えているだろうな、こう感じているんだろうなと想像してしまうきらいがあり、その想像が悪い予想だった場合、セミが頭の中で孵化したかのように脳内でそれがリフレインしてしまい、以降は思考がシャットダウンして「私」ではなく、人間が好みそうな人間、無難な存在を演じようとして、当たり障りのないことしか言えない愛想笑いロボットになってしまう。しかも、そのリフレインはその場のみならず、相手との会話が終わった後も続き、何かきっかけがある度にフラッシュバックする。そういったことが往々としてあり、鬱々とした感情が常につきまとい続けた結果として「死にたい」「消えたい」に繋がっているのだと思う。しかし、自死に至らない、至れない訳で。その逃げの手段としての「いなくなりたい」なんだと思う。
以前、その鬱々とした感情が爆発して、熱海へと1週間1人で旅に出掛けたことがある。文字通り自分の本来の居場所から「いなくなった」のだ。そこでは自分のことを知っている人間はおらず、関わろうとしてくる人間もいなかった。ただ、不思議と寂しくはなく、鬱々とした感情も湧き上がってこなかった。熱海にいる間に私は、喫茶店や路上、お土産屋さんなどで人々と世間話をしてみた。普段は知らない人との会話はなるだけしないのだけれど、やってみようと思った。それはSNS上で人と会話したり繋がったりする時のような寂しさからくるものではなく、自然と湧いた感情で。核となる自分自身はポジティブな人間なのかもしれないとすら思えた。熱海での「私」は「私」ではなかったのかもしれない。でも、たしかに、そこに、「私」は存在していた。「いなくなる」とは多分非日常のことであり、非日常への飛び込み、それが鬱々とした気分を晴らし、自分が好きじゃない自分を辞めるきっかけになるのかなと思った。こうやって書いたこともないnoteを書いてることだってそう。旅行なんて始めるまでに時間がかかることをしなくたって、なんだっていいんだと思う。小さいことでも大きいことでも、とにかく「いなくなる」ことをしたら、少しは「私」に近づけるんだと思う。昔友人に「お前は考えすぎだ、人に迷惑をかけない程度に自由にやっていいんだよ。」と言われたことがある。この言葉で私は救われたし、「私」は人から見栄えの良い「私」を維持し続けなくてもいいんだと思った。
毎日が新しい日なんだから、何回も逃げて何回もやってみればいいと思う。死ななきゃ日々は続くんだしね。まあぼちぼち生きてみます。読んでるみんなもやな事あったら「いなくなる」をやってみてね。以上。再見。
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