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アンチアイデンティティ

 個性なんてものは存在しないのではないか。自己分析をしながら私はそんなことをぼんやりと思った。だって、私は私が触れてきたもの── 例えば音楽、例えば映画、例えば小説 ──の和なのであり、それらの製作者はまた別の何かから影響を受けたものである。そうして遡って辿っていくと、最終的には確かな個性が存在していると思う。だけど、それ以外の全ては応用、組み合わせ、パクリ、オマージュ、それらに類する何かなんだと思う。もしかしたら、それらの原点だけは個性と呼ぶのかもしれないけれど。

 私には特筆できるほど人と違う何かはない。何を取っても凡庸なのである。合コンに来たら次の日には忘れ去られているタイプ。マッチングアプリで微妙だけど取り敢えずスワイプされる奴。六角形でステータスを表したら所々凹凸のある中くらいの六角形。そこら辺の通行人に石投げたら似たような奴に当たる。表現の仕方は様々あれどそんな感じ。兎にも角にも並なのである。

 そもそも、今まで人と違うことなんて求められてこなかったではないか。出る杭は打たれるといった言葉があるように、ズレが認知されると是正されてきたではないか。制服着用や細かい髪の長さまでの指定、受け身の授業、マニュアルに即したバイト。今まで檻に閉じ込められてたのに、「ハイ、今日から自由ね。で?何か個性は?」と言われても無理なもんは無理だろうと。問屋は卸してくれないし、下手したら店を閉めるかもしれない。私には作り笑顔での「いらっしゃいませ!」くらいしかできない。それにも関わらず、理不尽に社会はそれを要求してくる。どこかで「なんかおかしくない?」ってならなかったのかな。なった結果が昨今そこかしこで耳にするようになった、ダイバーシティとかいうやつなのかもしれない。

 凡庸さからくる自己嫌悪と社会の理不尽さの狭間に揉まれながら幾ばくかの時間を費やしたが、こうあれば良いという結論には未だに至れていない。しかし、そうしてる間にも時は過ぎゆき、年は老い、死はすぐそこに迫っている。そこで、私は一種の開き直りをすることにした。毎日をありたい自分でいること。日によって気分や体調は変わるから別にダメな自分でも良い。調子の良い時は普段しないことに挑戦してみたって良い。なんだっていいから自分が良いと判断したことをする。自分より優れている他人のことなんてどうだっていいし、それと比べてくる人たちのことだってどうだって良い。そもそも自分のための人生だし、悶々と生きた結果として、走馬灯に映る映像が辛かったり悲しかったりしたことばかりだと、死後に特級呪霊になってしまいそう。だから、最高の人生であったと思えるように、自分のありたい自分であり続けることにする。個性が云々なんて他者と比べるから考えるのであって、別にあるとかないとかどうでもいいんだと思った。

 みんなにもいろんな理不尽があるかもしれないし、ないかもしれない。何か思い悩んだら自分を大切にしてあげてね。私は最近「金色のガッシュ!!」を読み始めたので、これからやさしい王様を目指します。以上。再見。

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