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隣人愛は難しい。じゃあ、身辺愛はどう?

 隣人愛という言葉がキリスト教にはある。キリスト教について詳しく知らない私にとって、この言葉は「自分自身との関わりの有無は置いといて、誰にでも愛を与えようぜ」という考え方のように思えて、少し荷が重く感じる。ネット上の情報には「自分のまわりにいる、身近な人々への愛」と定義されているものもあるが、「隣人」という言葉から察するに、家族や友人、恋人、職場の人といったような親密度には差はあれどある程度関わりを持った人々というよりも、さらに広い範囲をの人々を指しているように感じる。誤解を与えないように予め書いておくが、決してキリスト教を批判したい訳ではないし、その考え方を否定するわけでもない。隣人愛という言葉は私にとっては重いものだから、もっと狭い範囲である身の回りの人々へ愛を身辺愛と命名し、それについて考えたいなと思う。

 隣人愛という言葉を重く感じる理由を深掘りしていきたい。そのように感じる理由は2つある。まず1つ目は、まずは自分自身を救う必要があると考えているから。マズローの5段階欲求でいうと安全の欲求あたりまでを安定的にこなせている人物にしか他人に無償の愛を与えるのは難しい話だと思う。他人に愛を与えるに当たって自分自身の基盤ができていないと、「どうして愛を与えているのに自分には何も返ってこないのだろうか」などの考え生じ、虚無感や徒労感に襲われると思う。また、その行いの結果として自身の生命活動の危機にすら陥る可能性がある。そうなってしまうと本末転倒な気がする。本来は始祖が無償の愛を与えてくださってるんだという感覚が備わっているため、自身は既に救われていてそのような活動は継続し得るものなのだろうが、少なくともそれを信仰していない人間にとっては難しい話だと思ってしまう。次に2つ目は、件の無償の愛というものは切り売りするものだと考えているから。切り売りするということはいずれ尽きて誰にも渡せなくなる日が来るということ。そうでなくとも、極小の無償の愛を渡し続けることになるはず。かなり感覚的な話にはなるけれども、それよりはドデカい愛を好きな人達に与えたくない?

 自身を大切にしつつ、好きな人達にたくさん愛情を注げるのが身辺愛の気がして、自分自身も自分の周りも幸せで素敵な空間が生まれるようでそれが個人的には最高だなあと思う。

 自分がダメな時は自分を守ってあげて、そうでない時は周りに愛を投げたいね。とにかく自分の周りがにこやかで幸せでいてくれたらいいな。みんなも身辺愛考えてみてね。以上。再見。 

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