Baby smokerの事
復活後、初めてやる自主イベントまで一週間を切ったので
何故活動休止したのか
何故今になって戻ってきたのか
そんな、これまでの事を話そうと思います。
2015年から2022年までの間、ずっと僕は辛かった。
これを読んでダサいとか、しょうもないとか、色々と影で言う人もいるかもしれない。
でも本当に辛かったし悔しかった。
2015年にBaby smokerが活動出来なくなるまで、自分はずっと音楽をやって生きていくんだと思っていたし、自分なりの信念を持って活動していたつもりだった。
カッコいい先輩達や後輩が沢山いて最高の仲間に囲まれ、ライブをすれば皆がいてくれてる。
売れていたわけではないけれど、あの時の自分には宝物のような環境だった。
バンドも人が集まってやるものだから、楽しい事だけではなくて、当然揉め事や意見が合わない事も多いし、どんどんズレが広がって修復出来なくなる事もある。
そんなこんなでメンバーチェンジを何度がするハメにはり、Butterflyをリリースする前には自分以外が脱退してしまい1人になってしまった事もあった。
今思うと本当に1歩進んでは2歩下がるようなバンドだったなぁと思う。
いつも、これから!ってタイミングには何かしらの事件があって足踏みする事が多かった僕の音楽人生。
今まで何があっても「何とかなる!きっと上手くいく!絶対最後には正解にしてやる!」って何があっても前向きな気持ちでやってこれたけれど、セカンドフルアルバムを出す前に親父が死んで、その時はさすがにきつかった。
初めて、気持ちだけではどうにもならない状況が訪れたからだ。
親父は小さな会社を経営していた。
決して僕は頑固者の親父と仲良くはなくて、親の立場なら息子が売れていないバンドマンなのだから、当然将来が心配だ。
当日の僕はギラッギラに尖っていたし、否定される度によく衝突していた。
そんなくだらん音楽活動なんかやめて会社を継げと何度言われたっけ。
今思えば何とかして僕が普通に生きていけるようにしたかったんだろうなと思う。
それでも、当時の僕はどんな形でも音楽をやりながら一生生きていくと思っていたし、勿論首を縦に振る事はなかった。
でも、親父が余命宣告を受けて緊急入院した時の事。
もう明日、明後日には死ぬかもしれないって状況になった時、親父に言われた。
頼む、会社を継いでくれ。
経営者は孤独や。
自分の家族や従業員、従業員の家族を食わせていかなあかん。
どんなに辛くて大変でも、それは見せたらあかん。
孤独なんや。
まだ小さい会社やけど、ここまで何とか大きくしてきたんや。
皆を守ったらなあかんけど、俺にはもう無理や。
おまえもやりたい事があるのは分かってる。
でも、おまえにしか頼まれへん。
おまえがやってくれるなら、俺は安心して死ねる。
頼む。
昔はめちゃくちゃ厳つくて、よくヤクザと勘違いされていたような親父が、その時には末期癌で痩せ細り、抗がん剤治療の影響で髪の毛も失い、老人みたいに弱り切った姿で最後に僕にそう言ったのだ。
断れる訳がなかった。
ここで断ったとして、僕は音楽を続けていく中でずっと親父の最後の願いを叶えてやらなかった事を後悔し続けると思った。
自分が許せなくるだろうし、堂々とやれなくなると思った。
だから引き受けた。
親父が亡くなって暗い気持ちのまま、自分の気持ちのやり場も分からないまま、最後のリリースツアーをやっていた。
ツアーが終わり、発表も何もしないまま無期限の活動休止となった。
何も発表しなかったのは理由があった。
すぐに戻ってきてやる。
何事も無かったように仕事と音楽を両立してやるんだ。
そんな風に思っていたからだった。
でもいざ会社を継ぐとなると、勉強やら修行やらが必要で横浜にある協力会社に就職して数年は修行しなければならず、最後のライブから1ヶ月後ぐらいには横浜行きが決定した。
僕が大阪に戻るまでの間、母親が会社を切り盛りする形になった。
横浜での修行は自分が想像していたよりも遥かに過酷であった。
仲間達からは、仕事しながらでもやれるよ!大丈夫!と励まされたりもした。
僕も何とかやれるかもしれないと思っていたけれど、現実はそんなに甘くなかった。
とてもじゃないけど音楽を出来るような状態ではなかった。
横浜に住み、関東の仲間から連絡を貰ってライブハウスに行ったり飲みに行ったりもしてみたけれど、自分がもう皆のようにやれない事が悔しくて辛くて、音楽関係者と会うのも、ライブを見るのも、音楽を聴く事も出来なくなってしまった。
ギターもほとんど触らなくなって、たまに車でラジオを聴いてみれば、当時一緒にやっていたような仲間の曲が流れてきたりする。
僕は何をやってるんだろう、何でここにいるんだろう
そんな事ばかり考えていた。
音楽活動を休止して、結婚をして子供にも恵まれて、横浜で約4年間過ごしたタイミングで大阪に戻れる事になった。
僕はワクワクしていた。
やっとBaby smokerがやれるかもしれない!
しかし当時のメンバーと話をして、もう皆昔とは違い、自分を含めそれぞれが他にやらなければいけない事に追われていたりで、話し合いの結果、活動再開は現実的じゃないという結論に至ったのだった。
大阪に戻ってきさえすれば、また出来るかもしれないと思っていた僕は、4年間で変わった事の多さに絶望した。
1番変わったのは僕自身だったのかもしれないと今は思う。
時間がかかり過ぎたのだ。
大阪に戻って会社を引き継ぐ段階に入ると更に過酷な状況が待っていた。
僕が横浜にいる間に少しずつ会社の経営状況は悪化していた。
このままじゃ潰れるのは時間の問題というところまで来ていたのだった。
僕は前からこうなる事が分かっていたし、こうなった時にどうにかする為に横浜で打開策を見つける為、勉強をしてきた。
だからこそ自分が戻ってきた今、親父との約束を果たす為にも絶対に潰してたまるかと必死で動いた。
しかしそれも実らなかった。
状況を打開すべく奔走して、やっと少し状況改善が出来そうな状態になった時、コロナウイルスがやってきたのだ。
1年間死に物狂いで耐えれば、まだ何とか出来る。
そう思っていたけど、1年じゃ終わらなかった。
コロナが始まり、2年目を迎えた時には、もう会社はボロボロで数ヶ月先には何もかも維持出来なくなるような状態だった。
その頃の僕は不安と恐怖で夜も眠れず、本当にどうにかなりそうだった。
これまで長い間、従事してくれた従業員に泣きながらリストラ宣告をした。
父親が築いた物を何一つ守れず、何をしても今の状況をひっくり返す事は出来なくて、ただ潰れるのを待つだけの状況の中、現実逃避にギターを持って歌を歌ったりしてた。
音楽業界も例に漏れず大打撃を受けて、配信LIVE等が出だした頃、アンドリューさんからBaby smokerの配信LIVEをやろうと連絡を貰った。
僕1人での弾き語りLIVE。数年ぶりにやるBaby smokerの曲。
どうにかなりそうなぐらい楽しくて、嬉しくて、それはそれはもう堪らなかった。
こんな状況になって、僕はずっと避けてきた音楽に救われていた。
僕の中にある音楽と、それで繋がった仲間に僕は救われていた。
これまでと形は違えど、音楽をやる事で僕は力が湧いてきたのだ。
また会社をどうにか守る為の行動に出る事が出来た。
それからは全く別の事業を始動して、少しずつだが経営状況も改善しており、会社は現在も存続している。
そんな中で、元ココロビンソンのナオミチに一緒にやろうって声をかけ、正式加入までなんやかんやとあったけれど、約8年ぶりにBaby smokerを復活させる事が出来た。(ナオミチ本当に有難う)
後はドラムだけという所まで来れた。長かった。
ナオミチも同じように悩んだし苦しんだ時期があったけれど、遠回りをしながらもまた一緒にバンドがやれている今を喜んでくれている。
僕らは12月にレコーディングを予定していて来年には皆に現在のBaby smokerの曲達を届けたいと思っている。
来週に迫っている11/19新宿ACB、11/20の磐田FM STAGEでのBaby smoker主催イベントは憎きコロナにかかった為出演キャンセルとなった8月公演のリベンジだ。
ある人に
Baby smokerなんてもう誰も知らないよ
そう言われた。
そんな事は僕が1番知ってるんだよ。
でも僕らは今度こそ火の玉のように熱く燃える為にまた動き出したんだ。
だからこそ今、出逢って欲しいと心の底から思っている。
これから注目していて欲しい。
2022.11
Baby smoker Vo&Gt Wattan
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