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ネットで繋がる自身の夢と番組での新たな絆。ゲスト:桑江令さん(2022/12/2 OA)【Watta! Itta! #10】

新番組「Watta! Itta!」

第10回のゲストは、なんとパーソナリティ本人!
那覇市首里出身、Webコンサルタント・パーソナリティの桑江令さんでした。

(自分のことを”さん”付けで書くのも変な気分ですが、今までのスタイルを踏襲します)

桑江さんは現在Webリスクコンサルタントとして活躍しており、9月30日からはこの番組のパーソナリティを務めています。

今回はパーソナリティの一人語りではなく、あえていつもと同じ「ゲストトーク」のスタイルで、多重収録をしてみました。

放送はこちらから!

【radiko】 ※2022/12/9迄
→沖縄県内からはタイムフリー(無料)で、県外からはエリアフリー(有料会員)で聴けます。

【podcast】 ※2022/12/8~
→全国どこからでも聴けます。
(anchor、spotify、apple podcasts、Google podcasts、Amazon music)

放送内容のまとめ

ここからは放送内容のネタバレになりますので、是非番組を聴いてからお読みください。(一部、本放送ではカットされた部分も含みます)

高校生で気付いたネットの可能性

桑江さんは城西小学校から琉大附属中学校、そして首里高校へと進学。

小学生の頃からバスケットボールを始め、中学高校と続けますが、転機となったのが高校一年生の夏。原因不明の体調不良になってしまい、夏休みの一か月間を丸々自宅療養することに。これまでずっと部活漬けだったため、初めてまとまった休みを取ることになりました。

とはいえ自宅療養なので外に出るわけにも行かず、読書やゲームも一通り飽きてきたときに出会ったのがインターネットのオンラインチャット。時は1997年。日本にはまだGoogleも存在せず、Yahoo!がほぼ唯一の検索エンジンとして開始した翌年でした。

桑江さんは元々歴史が好きで、特に戦国時代が好きだったため、インターネットでそうしたサイトを眺める日々。そのうち掲示板(BBS)に書き込むようになり、そして最終的に行きついたのがチャット。今のように映像でやるのではなく文字だけのやり取りのチャットですが、サイトの常連さん達が夜な夜な集まり、歴史の話やよもやま話を繰り広げる場は、沖縄の自室で閉じ籠らざるを得なかった高校一年生の桑江さんにとって、無限に広がる可能性を感じたのでしょう。

そこからはほぼ毎日、夜の11時からのチャットタイムに顔を出しては多くの人と知り合いました。大学教授に有名な雑誌の編集長、経営者に会社員に公務員、そして大学生まで。まだネットが主流じゃなかった頃に集まっていた人たちは、ある意味時代の最先端の人たちだったのかもしれません。

そういう人たちと触れ合うことで刺激を受けた桑江さんは、その年の11月に自分のホームページを開設します。城に見立てて「気分は下克城」と名付けられたそのサイトでは、自筆コラムやエッセイ、ゲームレビューなどと共に沖縄のバスケットボールについてを扱うコーナーを作ったのですが、それが転機となりました。

当時、自宅療養を終えたものの、腰を痛めてしまいバスケ部での自身がプレイすることを諦めた桑江さんですが、バスケが好きということもあり、高校の大会のたびに強豪校の試合を自前のビデオカメラで撮影。そしてそれを元にゲームの感想をコーナーに掲載していました。
当時はバスケを扱うサイト自体があまりない中で、沖縄の高校バスケを詳しく取り上げるサイトはかなり珍しく、県内のバスケ好きが集まるようにあり、そして遂にそれがバスケの老舗雑誌である「月刊バスケットボール」の記者の目に留まります。

雑誌の中でサイトを紹介してもらいながら、記者との交流は続き、当時日本代表の合宿をよく沖縄でやっていたということもあり、自宅にも遊びに来てくれたりする中で、その記者の計らいでなんと”学生記者”(サイト運営者)として、日本代表の合宿を取材させてもらい、かつその中で沖縄出身だった佐久本智選手へのインタビューをさせてもらう経験をすることになります。単なる沖縄の高校生だったのに日本代表の選手にインタビューをすることになるとは!その時の桑江さんはこの縁を作ってくれたインターネットというものに無限の可能性を感じたのでした。

その「スポーツライターになる」シンデレラストーリーはなぜかその後終わってしまうわけですが、チャットで交流していた人たちとのオフ会に参加するために一人で東京や名古屋などにも行く機会に恵まれた桑江さん。こうした経験もあり大学は県外に出ようと決め、受験したのは県外の大学のみ。そしてそのうちの一つに無事合格し、2000年の高校卒業と共に沖縄へ出ることになりました。

”物書きになる”ためのロードマップ通りに生きる

こうして大学を進学を機に沖縄を出て、千葉県の柏市へと引っ越した桑江さん。大学時代は部活にサークルにゼミにバイトに、と充実した大学生活を送ります。充実しすぎて1年留年してしまい、大学5年目は授業もほぼ無い状況の中、平日ほぼフルで働き始めたのがコールセンターでした。

その当時の桑江さんの人生設計は、”30歳までに物書きになること”。そのためのロードマップとして、以下を考えていました。

①社会人3年目までは死ぬほど働いて最大限の社会経験を積む。
②26歳で出版関連の企業に転職。編集などを経験する。
③28歳で兼業作家として活動を始める。
④30歳で専業作家に。

その実現のためにはまず①が重要なわけです。既に留年という形で躓きかけたわけですが、それを逆手にとってバイトという立場で自分磨きをすることを考えます。社会人として、社会経験を積むためには入社してすぐに第一線で活躍することが重要で、そのためには何といってもトークスキル、営業力だろうと考えたわけです。

こうして決めたバイト先は、BtoBのアウトバウンド専門のコールセンターでした。つまり企業に電話をしてアポイントや契約を取る仕事です。そしてそこで運よく初日に「電話受注」という成果を挙げることに成功。それもあって目をかけてもらうようになり、いつしかスーパーバイザーのアシスタントを任せてもらい、「もうこのままインターンとして働いて、卒業したら入社してしまえば?」というありがたいオファーをいただき、ここなら自分のロードマップに合致するだろうと入社することに決めます。最終面接で社長に「僕の人生設計はこうなっているので、入社しても三年で辞めます。でもその間は誰よりも働きます」と宣言。それを面白がってくれて無事に入社し、社会人生活をスタートすることになりました。

その後はその宣言通りに3年で一社目の会社を辞め、大手サロンの子会社であるクリエイティブ関係の企業に転職。そこでホームページや通販、広報の業務をしながら、サロン客に配布するフリーペーパーの企画編集に執筆、そして最終的には編集長を務めることになります。まさにプラン通りに経験を積むわけですが、誤算だったのは「商業ベースでの物書きが思ったより面白くない」という自分の感情でした。
自分の好きなものを好きなように書けるからこそ面白いのだと気付いた時、「今はもっとビジネスをやりたい」と考え、仲間と共に会社を立ち上げることを選択。そこから二年間はその会社の経営と事業拡大に携わることになりました。
そして2010年、現職であるWebコンサルティングを手掛ける会社に転職したのです。

やりたいことは仕事を通じて実現させる

これまでの人生の中でインターネットを常に愛用し、そして多くの経験を得てきた桑江さんにとって、そのインターネットを様々な形で活用するプランを提供するWebコンサルタントという職業は、正に天職だったかもしれません。なにせ最も重要な「インターネットの素晴らしさ、可能性」を自分の経験から話せるのですから。

そんなこともあり、コンサル活動は充実していきます。中でも”ネットリスク”領域は目新しい分野であり、かつ得意とする人や会社が居なかったことから、そこに差別化を見出せたことでWeb系のイベントへの登壇や雑誌取材などの機会も増えていきました。

8年前のこと。とある有名な雑誌に取り上げられる機会があった桑江さん。そのことを誰よりも喜んだのが、当時病床にあった沖縄の祖父でした。掲載されている雑誌を病室に持ち込み、見舞いに来るお客さん一人一人に嬉しそうにその記事を見せていたと言います。「孫が東京で頑張ってるんだよ」と嬉しそうに語りかけたのだとか。
残念ながらその後祖父は亡くなってしまうのですが、その祖父の行動を後から聞いた桑江さんは「家族孝行が出来た」と喜びを感じました。
県外で仕事をしていてもなかなか活躍は伝わらない。けれどそれを伝えられる機会があれば、皆が喜んでくれるのでは? その時の想いが、このラジオ番組のコンセプトにも繋がっているのです。

その後もコンサルタントとしての活動は続いていきますが、コロナ禍でも大きな転機がありました。

コロナ禍の2020年5月より、仕事で「ランチタイムウェビナー」という企画をスタート。毎週水曜日のお昼に1時間、様々なゲストを招いてオンラインでセミナーをするというもので、ある意味ネット番組をレギュラーで持つようなもの。その中でホスト役をするようになったのです。

この企画では、毎回のトーク内容はもちろん、その内容に合わせたゲストの選定や出演交渉までこなすことになり、正に番組作りを仕事としてすることになったわけで、この二年間の経験というのが今回のラジオ番組の原型になっています。つまりホスト役としてゲストをお迎えしてトークする、というスタイルですね。もちろん「どうすれば出演してくれるのか」のオファースキルも重要です。この企画を始めた当初は、そういうことになるとは全く思っていなかったのですが、気付けば自分がずっとやりたかった「ラジオ番組」の実現に近づくことになったのです。

その辺の話はこちらのnote記事にまとまっています。

コロナ禍でより「ラジオ熱」が高まった桑江さんは、2021年の正月に「40歳までにラジオ番組を持つ」ことをFacebookで宣言。それにより周りの知人や先輩から様々なアドバイスや人の紹介をしてもらうことができ、遂に今年の9月30日、この「Watta!Itta!」がスタートしたわけです。

全くエンタメ関係の経験が無い状態からでも、40歳という年齢であっても、しっかりと周りにその夢を宣言し、そして適切な手段をしっかり取ることが出来れば不可能なことはない。それを少しでも伝えられれば、ということで自身をゲストに迎えてトークをした桑江さんでした。

今後のこの番組にどうぞご期待ください。

こぼれ話

桑江さんの沖縄でのフェイバリットスポットは、那覇市の美栄橋、久茂地川沿いにあるバー「SEIBIN」でした。
このお店は半クローズなバーで、知っている人しかたどり着けないような場所にあるのですが、ひょんなことからそのバーに通うようになり、今では那覇で夜を過ごす日は必ずこのお店に顔を出すのだとか。そのため何日か滞在している間は連続で飲みに行くそうです。

落ちついた雰囲気のお店の中で、落ち着いたマスターと共に豊かな音響で聴く音楽。そこで飲む一杯が至福のひと時。
興味がある方はぜひ番組まで連絡をください。マスターにお繋ぎします。


桑江さんが後輩たちに伝えたいこと。それがまさにこのラジオ番組の主旨でもあります。”ウチナーンチュには無限の可能性がある”ということ。県外には様々な場所で活躍している先輩たちが居ます。そんな人たちの生の声を届けることで、「自分の人生をもっとチャレンジしたい」と思って貰いたいと考えています。

そして同時に、出演してくれるゲストの方々に対しても、思いがあります。
せっかく県外で頑張っているのに、その姿を沖縄に居る家族や親せき、友人達に伝わらないもどかしさ。それをこのラジオ出演を通して少しでも払拭し、「〇〇さん、頑張ってるさ~」と思って貰える機会を提供したいと考えています。

つまりは、ワッターとイッターを繋ぐことで生まれる可能性。それを自身のライフワークとして続けて来たいと考えているんですね。
そんなわけなので是非番組にエールを! Twitterやメール、お待ちしています。

次回のゲストの紹介

さて第11回となる次回のゲストは、”サブスクマニア”として様々なメディアにも出演されている宮城いくえさんです。

【Twitter】 【会社HP】 【運営サイト】

宮城さんは那覇市の出身。那覇高校を卒業後に県内のインテリアショップにてインテリアコーディネーターとして勤務した後、ケータリング業界に進むために東京の会社へ就職。
そこで5年働いた後、Web業界を志してWeb制作やデザインについて学んだあと、2019年に個人事業主として、そして今年の9月から合同会社Branchを立ち上げ、ライティングや写真撮影、メディア運営などを手掛けています。

そして宮城さんは現在でも同時に12種類のサブスクを活用しており、またブログ等を通して様々なサブスクの体験記事・紹介記事を書いており、こうした活動から”サブスクマニア”として多くのメディアにも登場しています。

そんな宮城さんに、これまでの活動の歩みと共に、オススメのサブスクについても伺いますので、どうぞお楽しみに。

2022/12/9、22時~ オンエアーです!


「Watta! Itta!」(ラジオ沖縄)
毎週金曜日 22:00~22:30
ハッシュタグ:#ワッタイッタ
メール:watta@rokinawa.co.jp
→皆様からの感想やゲスト候補の自薦・他薦もお待ちしています!


【Watta! Itta! Credit】
・Sponsor
一般社団法人あゆむ
株式会社バリューブリッジ
株式会社しんか

・BGM
(Opening)「Emotronik」佐土原隼人
(Ending)「かえりじたく」ninny
(Jingle)なるけしんご、近藤崇、ハヤシユウ

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