根本的に、自分の言葉で考えてみるシリーズ。「葬儀」と「宗教」と「政治」について。

一から、根本的に、自分の言葉で考えるアプローチでやってみよう。

「葬儀」と「宗教」っていうことについて、根本的に、一から、自分の言葉で考える。

人は死ぬ。

人は死ぬと、死体になる。死体というと、物理的、生物学的感じがする。

人は死ぬと、ご遺体になる。遺体というと、これは人間関係、社会との関係をもった、生きている側にとって意味のある死体のことだ。

生きている側には、死者と別れたくない、死んでほしくないという気持ちがある。それなのに死んでしまってもう動かない死体のことを遺体というのだろう。

日本の神話は、この「遺体への遺族の感情」とその変遷というのがすごくよく出ているよね。イザナギ(男)・イザナミ(女)夫婦の神様。仲良しだったんだろう、たくさんの子供の神様を作ってはどんどん産んでいったのだが、火の神様ヒノカグツチを産んだら、あそこが焼けちゃってイザナミは死んじゃうんだよな。そして、イザナミは死者の黄泉の国に行っちゃうのだが、離れたくないイザナギは黄泉の国に連れ戻しに行っちゃう。で、腐ってウジまで湧いちゃっている姿を見られたイザナミがイザナギのことを怒って追いかけてきて、黄泉の国から現実の世界の境目のところで、イザナギがイザナミを「黄泉の国へ帰れ」って追い返すわけだ。人間、腐ってウジが湧かないと、死んだ人の「肉体」を諦めきれなかったのだと思う。

 人は、愛する人が死んだら、生き返ってほしい。生き返らないまでも、遺体を、そのまま、置いておきたい。別れたくない。

 でも死体は、腐っちゃう。ひどい腐臭がして、ウジが湧いて、大変なことになっちゃう。

 なので、遺体をなんとか処理しなければならない。「土の中に埋めちゃう派」と「燃やしちゃう派」に分かれるわけだが。

 葬儀というのは、宗教的意味以前に、「遺体が腐っちゃう」ことに対して、あんまりひどくならないうちに、ちゃんとお別れする気がする状態のうちに、ご遺体とお別れする儀式、という必要から生じたはずである。

 話が脱線するが、ものすごい権力者だけ「遺体が腐らないようにして肉体も残す」という特権を行使しようとする、という習性が人類にはある。エジプトの王族のミイラのことだと思ったでしょう。いやいや、現代まで続いている。レーニンの遺体は防腐処理をした状態でレーニン廟に保存されている。けっこう長いこと公開されていたはず。今はどうなんだろうな。今、読んでいる小説でも、主人公の1人がレーニン廟で遺体を見る場面がある。

話を元に戻そう。

 葬儀が終わったら、死んだ人の肉体は無くなっちゃうけれど、死んだ人自体が全く完全に消えてなくなっちゃうの?それでは寂しい。むなしい。

 と言うことに対して、そうじゃないよということを、「天国とか極楽とかあの世とか、海の向こうとか裏山のあたりとか、そういうところに魂がいくだけだよとか、他の人に生まれ変わるんだよとか、他の生き物に生まれ変わるんだよとか」死んだ人の魂はどうなるのかという考え方の体系として「宗教」というのが生まれる素地になるわけだよな。

 ちょいと科学的な方向に脱線する。

 死後の世界イメージが、世界中でかなり共通性があるのは、「臨死体験」=死の直前に脳の中で起きるプロセスのことだよ、死後の世界のことではありません。=というのが、「体外から自分を見ているという意識」「川のようなところを渡る」「きれいなお花畑のようなところにいく」「懐かしい死んだ人に出会う」「大きな光に包まれる至福を感じる」「個人の意識がなくなっていき、大きな光と一体化する」というようなプロセスをたどるこれりは民族も人種も宗教も関係ない。脳の低酸素状態に陥った時に脳の機能として発動する「ご臨終前体験プログラム」なのだ。

人類の長い歴史の中で、この「脳のご臨終プログラム」を体験したのに。生き返ったという人が、ある確率で発生する。そして「生きている最後の体験」を「死後の体験」と勘違いして語ることで、「あの世」「死んだらどこに行く」「神や仏に出会う」「そこには死んだ人たちがいる」という宗教的死後世界像が成立するのである。世界のどの宗教でも、「死んだらどうなる」にかなりの共通性があるのは、(「生死をわける川があって」みたいなのも洋の東西を問わずある。)、脳のメカニズムが発生源だからである。

 脱線した。戻ろう。

 人は必ず死ぬ。ご遺体のうちの、死体は必ず腐ってえらいことになるので、処理をする。それでも何かが残るのが魂。魂がどうなるのかの「集合的物語」(科学根拠あり)が宗教の起源。

 宗教は、人の「死の恐怖」を「死の瞬間の恐怖」「完全に消えてなくなることへの恐怖」「死後の世界への恐怖」を分けて構造化して意識させる機能がある。

死の瞬間、痛かったり苦しかったりするだろうな。これが死の恐怖その①

死の恐怖その② 自分がなくなってしまうということは、漠然と怖かったり寂しかったりするよな。死んだら誰にも会えない何にもできない。それは悲しいな。

死の恐怖その③もしかして死んだ後に現世の行いで、待遇にすごく差があって、永遠に楽しい生が続くのと、永遠に苦しみが続くのに分かれるとすると、超怖いな。

どれも怖いけれど、①は過ぎればなくなるし、②は「むなしい」けれど、あきらめもつくが、③だと、すげー、やばいよな。

というわけで、たいていの宗教で

「死後の世界の恐怖」「天国と地獄。極楽と地獄」「地獄を逃れるための現世で成すべきこと」「天国極楽に行くためにやるべきこと」が体系化されていく。

 死後の恐怖から逃れるために現世でするべきことが体系化されると、そのことを「他者を支配」することに活用できる。政治と宗教はその根本で、結びついているのである。

 イスラム教の歴史、イスラム教成立直後、アラビア半島をイスラム教団が戦争して統一していく歴史である。「神のために戦って死ぬことで、必ず天国に行ける」という教えになっているのは、すごく合理的である。日本の戦国時代の一向一揆の勢力がものすごく強かったのも、信徒たちが死を恐れなかったからだ。現世の苦しい生よりも、あの世で幸せになる方が人生の価値として高い。神仏のために戦って死ぬことが最高の死に方である。という教えは、戦争遂行と相性が良い教えなのは当然だ。

 人の死、死体と遺体、葬儀、宗教の発生の原理的メカニズム、政治と宗教のその原始的結びつき、宗教の教えと戦争の関係。メカニズム。

 根本的に考えるというアプローチをとったのは「だから悪い」と批判するためではない。そうではなくて、「そもそも宗教は、そういう人類の、ごく自然な思考と行動から必然的に生まれる」、人類共通の本質に基づいている。ということを、まずはいったん、押さえておこう。というのがここまての話。

 次に。各地方各部族ごとに自然発生的に宗教は生じて、それはその部族サイズの社会生活、そのような小さなサイズの政治の中で定着していく。戦争や死というときに大きな働きをするだけでなく、一年のサイクル、狩猟採集生活のサイクル。天候による自然災害のサイクル。農耕生活と天候の関り、そういうものと結びついて宗教は、「社会生活の基本リズムを作る」歳時的行事として平和な生活の中にも浸透していく、多くの宗教行事が「夏至冬至」「春分秋分」と結びついているのは、こういう理由である。

 部族社会から国家へと発展していき、宗教のサイズも大きくなっていき、征服した側の宗教が、征服された側の宗教を飲み込んでいくが、土俗的歳時的行事は形を変えて残る。クリスマスはキリスト教以前の冬至の祭りの習慣が、キリスト教に飲み込まれた後も残ったものと言われている。世界中でそういうことがあるので、政治的支配被支配や、異民族異文化との交流で、宗教がどんどん形が変わっていくのは当然で、そうやって生まれる「新興宗教」は、常に生まれ続けている。日本の仏教なんかも、日本の様々な土俗信仰と合体して、インドの形からみたら別物になって日本社会に定着しているのである。

 生活に深く密着すると。宗教が「日常生活を円滑にするための処世訓とか道徳律」みたいに働き始める。イスラム教は、三大宗教の中ではいちばん新しいし、ユダヤ教⇒キリスト教⇒イスラム教と、同じ神様が、だんだん、より人間に親切に教義を細かい点まで規定するように進化させていったもの、という位置づけなので、社会生活の「法体系」まで、イスラム教は宗教の中に全部組み込まれているわけだ。道徳律だけじゃなく、商法・刑法も、経典とその解釈の中で宗教的に決まっている。

 政治と宗教の関係というのは、こういうふうに「戦争と政治と宗教」という大きな非常事態だけではなく、日常の社会生活のあり方まで、規定し,浸透させていく機能があるのだな。宗教を通じて、社会、家族、地域、そこでのふるまい方までコントロールしていく力を持つ場合がある。みんながあるひとつの宗教を信じている社会で、他の宗教を信じていたら、ものすごく生きにくい。ものすごく浮いちゃう。これは「どっちが多数派でどっちが少数派かは、社会、国により違う」からね。日本社会でイスラム教徒として生きるのは、相当不便だし、浮いちゃうし、差別されている、下手すると怖がられている、ということはあるでしょう。911テロの後、アメリカで暮らすイスラム教徒は「テロリスト」と疑われてすごく生きにくくなったわけでしょう。『通訳・ダニエルシュタイン』という、ユダヤ人なのに数奇な運命でカトリックの神父になって、イスラエル(ユダヤ教の国を作るというのが建国のもともと)で、イスラエルの中でカトリックの教会を建てて運営するということをした人の実話に基づく小説なんだけど。世界的に見ればカトリックは巨大な宗教だけど、イスラエルでは、もう「異端の極み」のように差別され、生きづらいわけだ。

 こうして、「人が死ぬ時」「戦争が起きた時」だけでなく「狩猟採集や農耕の歳時記的行事」とも結びついて、宗教は人の生活に深く組み込まれ、そして、他民族他国家との経済的交流や支配被支配という大きな歴史の中で、宗教も融合、呑み込んだり呑み込まれたり。飲み込まれても行事や習慣は残ったり、そうやって各国、各地方、各民族ごとに独特の宗教が生まれて定着して今に至るわけだ。

 日本人の「いや、別に宗教なんて信じてないし」という人も、お葬式はではご焼香もして、全く意味の分からないお経を聞いて、戒名をつけてもらうのに、ずいぶん法外なお金を払ったりしても、まあ仕方ないかと思い、そういうことを、なんとなく当然と思っているということは、それは「宗教が生活に浸透している」ということなのだ。

 コロナで「今年は初詣、どうしようかな」となったとき、「初詣に行ったからといってすごくいいことがあるとは思わないけれど、行かない、初詣をしないとなると、なんとなく、落ち着かない。これで何か悪いことがあったらいやだあ」と思うの、それはかなり深く、漠然とした神社さんへの信仰、というのが心の中にあるということだ。神道が全部、天皇家と関連付けられた「国家神道」になったのは、明治期の天皇中心集権国家化政策によるのであって、神社にもともと祀られているのは、そうとうバリエーションが大きい。広い。

 本質的には、「もののけ姫」冒頭に出てくる。イノシシが「祟り神」になるから祀る、というのが、日本人の「神社信仰」の原型だと思う。神道、というのではない。「神社に何かを祀ってお参りする」信仰。ないがしろにすると「祟る」ものを祀って、祟らないようにする。

 菅原道真を祀るのは「すごく頭がいいから神様だから受験の神様」なわけではない。藤原氏に迫害されて死んだから、祟りそうだからまつってあるのだ。これは「人物」でしょう。

 諏訪大社っていうのはね。諏訪は大和朝廷系弥生人に対して、だんだん滅ぼされていった縄文人が日本の中で最後まで抵抗して残った場所、諏訪の、縄文人側を祀ったものが起源。「御柱祭」というのは、縄文人の巨木信仰の名残り。

 ぼくが「地震予知マニア」なのは友人皆さんご存じのことだが、日本の地震が多発する「中央構造線」という断層。九州から四国の北側、淡路島、紀伊半島から名古屋から諏訪から群馬から千葉茨城県境を通って太平洋に抜ける。

この断層線上に、日本の大きな神社、主要な神社がずらっと並んでいるのはご存じの通り。地震が起き、地割れができれば、「祟る神様」がいると思うのは当然。それを鎮める神社が作られるのは当然。

 つまり、神社信仰は「あの世」とは基本的に関係なく、「祟るもの」を、有名人から先住民から、水害をもたらす川、地崩れで崩れたら怖い大岩、地震の起きる場所、そういうものが祀られているのである。

 そして、そういう神社の裏山というのが「死後の世界」とちょっと関係ある。仏教以前の日本人の「死んだら魂はどこに行く」の答えは、なんとかわいらしい「裏山あたりにいく」のである。そして、お盆にだけ帰ってくるのである。仏器教徒は関係ない土俗信仰である。メキシコにカトリックが根付いても、お盆みたいに年一回、死んだ人が返ってくるお祭りがメキシコにあるでしょう。ディズニーアニメ映画「リメンバー・ミー」で描かれているやつ。あれも同じ。死者・祖先がわりと近い所にいて、帰ってくる信仰は、仏教やキリスト教より古い土俗信仰だよね。それがキリスト教や仏教に組み込まれて残ったわけだ。

 話が遠回りしたけれど、神社にお参りしてお守り買ったりしないと、初詣とか七五三とか受験前とか不安なのは「祟る神を鎮める」方が大きい。(やればいいことがあるというより、やらないと嫌なことが起きそう)という気持ちになんとなくなるということは、あなたはかなり深く日本的神社への信仰があるということ。

 でもその気持ち、普通、天皇への信仰とかと関係ないでしょう。「神社信仰」と「国家神道」のややこしい関係、ねじれた関係というのが、存在するわけだ。

 たしかに、由緒正しい古い神社だと、本当に天皇家祖先の神様が祀られている神社があるけれど、それって、だいたい弥生人系征服政権が縄文人を征服していった神話と史実の間の頃の、なんらかの事実に基づいて、「縄文人が祟らないように」と「天皇家側神様や英雄の業績を称える」という神社なんだな。だから、神社が「国家神道」と全部関係ないかというと、本当に由緒正しい古い神社の中には、日本の神話と関係ある神社はある。

 でも、大半の神社は「祟るということは敵側人物が祀られているか、災害のもとになる地元の自然物由来の神様が祀られている」のが起源である。「巨岩」とかがご神体なのは、天皇家より古い縄文人時代のなごりの場合が多いよね。

 さてね。これくらいの「宗教ってなんだ」「宗教と政治の関係って何だ」「葬儀ってそもそもなんだ」「すごい権力者が死んだとき、葬儀は普通と違ってどんなふうに考えられるんだ」

 みたいなことを、ひとまず、みんな、それぞれ、自分の生活を改めて振り返って考えよう。という提案。

「信教の自由」と「政治と宗教」という問題は、その先にあるんだよね。

 で、日本人はあんまり厳密に考えたことがないんだよね。

「信教の自由って大事だよね」「政治と宗教は分けなきゃね」、あたりまえだよね。くらいに考えて、自分はちゃんとしている、ちゃんと分かっている。と思っちゃっている。

 そこ、ゆるゆるな「西側先進国」たくさんあるでしょう。アメリカでは、政治家でも裁判でも、宣誓の時のデフォルトは「聖書に手を置いて」でしょ。他の宗教の人は他の方法でオーケーだけど、基本は「聖書」って、宗教国家じゃんね。

 ドイツのメルケルさんの政党は?「キリスト教民主同盟」だね。宗教政党じゃんね。名前からして。

 フランス人なんかはそこのところ、ものすごく厳密だからね。

「ライシテ」といって、公共の場で、宗教的シンボルを、他者に見えるように身に着ける事禁止だからね。イスラム教徒のスカーフ禁止、だけじゃなくて、キリスト教徒の十字架首飾りなんかも同様なのよ。フランス人て面白いよね。「個人的場では信教の自由はすごく尊重」「でも、公共の場に宗教的慣習を持ち込んではだめ」

 ところがさ、イスラム教と言うのは、日常の細かなことまで、服装も、全部、決められているわけだ。それを禁じられたら、困っちゃうわけだ。

 フランスでイスラムテロが多発したのは、「ライシテ」という政教分離が厳格だからという皮肉なことがあるわけだ。

 宗教と国家が決めた法律。日本人は無邪気に「法律のほうが上」と思って、「法律に違反しない限りは宗教は尊重しないとね」なんていうけれど、「国家の法律より宗教の教え、規定のほうが上」と考える人は世界にはたくさんいるんだよ。だって「この世の限りある生より、来世の永遠の生のほうがずっと大事」って考えれば、「国家の決めた人間の決めた法律なんかより、宗教の教えの方が大切」と思うのは、論理的に正しいじゃんね。

 ここまで、「根本的なこと」として、宗教のことを考えて来て。そのうえで、より具体的で個別的なことを、ひとつひとつ考えていかないといけないんだよな。

 宗教を「カルト」と「正しい宗教」に分けるのは何か。

 たとえば「教団の偉い人が、信者の子供に幼児性愛を働くことが常態化していて、それを組織的に隠蔽している」としたら、それはカルトか。

 たしかに、この前紹介したAmazonプライムのアメリカのカルト教団についてのドキュメンタリーの「エホバの証人」の回は、そういう被害にあった女性の告発ストーリーなんだよね。幼児性愛を幹部がして、それを隠蔽するような教団はカルト。ほんとう?。上級聖職者の男児への性的行為の組織的隠ぺいがずっと問題になっている大きな教団はどこだ。ローマカトリックです。そうです、それを知っていて隠蔽した疑惑で前の教皇はやめていますよね。カルトかカルトじゃないまともな宗教かだって、どこに線を引くかは、本当はあいまいだよ。犯罪の隠蔽が常態化していても、歴史が長くて信者がたくさんいたらカルトじゃないの?それなら、「大きくなったもん勝ち」じゃんね。

 個人の内面の信教の自由と、その教義に従うと、家庭や社会を壊してしまうことの関係はどう考えたらいいか。国家や法律はどこまでどうそれに介入できるか。イスラエルとカトリックを信仰する生活か大変だったり、ユダヤ教徒の家族と不和になったりするとするじゃん。そしたら、イスラエルという国家・社会の中では、カトリックはカルトっていうことになるの?

「政治と宗教」の何を禁止し、排除しないといけないか。

 「生活に根差してしまって無意識化している宗教」と「道徳」の関係をどう考えるか。その無意識の浸透が政治利用されるとすると、それはどうやって防いだらいいのか。

 こういうことを浅くしか考えずに、「あいつら悪い奴だから、こらしめよう」という発言をすると、このあたりを深く考えて理論武装した悪い奴、それを擁護しようというやつらに、軽く言いくるめられちゃうよ。

 これは「葬儀」と「政治と宗教」を論じるための前提・基本編でした。さてと。今日はもうおしまい。

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