ウクライナ戦争についての立場意見が違う新しいFacebook友人と、冷静に議論できたらなあ。どこが相違点なのかを、僕もできるだけ冷静に整理してみた。難易度高かったけれど。

前置き

 戦争が始まってちょうど二か月。いろいろ書いてきて、僕が、東京外語大教授、元国連PKOで紛争地における停戦から和平に向けた戦後プロセスの実務経験豊富な伊勢崎賢治氏の意見に近い立場であることは、私のnoteやFacebook投稿を読んでいる方には理解いただいていると思います。

 その立場であるということは、当然、細谷雄一氏に対しては、私は批判的です。

 吉野家の件での私の投稿に反応してくれたある大学の先生、仮にN先生しておこうか、という方とFacebookで友達になった。とても面白い方で、「鎌倉殿と13人」なんかについても話が合って嬉しいなあ、と思っていたのだが、ことウクライナ戦争については、細谷氏の立場、意見に賛成し、伊勢崎氏には批判的なのである。正反対の立場だなあ。なんか、ちょっと残念な気持ちになった。

 でも、N先生、「月曜日のたわわ」問題で友人の方と議論しているのを見ても、違う意見の人とも冷静に議論しているんだよあ。理性的に。

 この戦争について、ツイッターでもFacebookでも、この立場の違いがあると、たいてい、ひどい罵り合いになっちゃうんですよね。戦争と言うのは、人を「友と敵」に明確に分けてしまう。カールシュミットの言う「友敵関係」にしてしまい、最終的には相手の全存在を否定したくなってしまう。政治の本質、その究極の形の戦争を論じるというのは、そういう難しさがあります。

 でもね、例えば、伊勢崎さんでいえば、「憲法論議」では同志だった山尾志桜里さんと、この戦争では意見が真っ向対立しているのだけれど、二人で対談して、それぞれの意見立場の違いを、冷静に議論しているのだよな。

 それから、細谷氏も、強硬頑固な論者かと言うと、いろいろな人からの批判をちゃんと読んでいて、ツイッターでも、そういう批判や異論に対して、真摯に冷静に反論を続けている。もちろん自説の核の部分は全く曲げないけれど、冷静に論を展開しているのだよな。「どのっちもどっち」論が、新左翼的な反米思想から来ている、と書いたことにはいろいろ批判があって、それについてはやや意見を修正しながらツイートをしていたりする。そういう意味で、細谷氏という学者さんの態度には、意見は違うけれど、いいなあ、と思っているところはある。

 だから、この文章を書いている主旨は「伊勢崎氏と細谷氏」と言う、真っ向から正反対の意見の論客がいて、私とN先生と言う、「友だちになったばかりなのにこの戦争については意見が正反対だな」ということがあり。

 N先生も大学の先生で、しかもいろいろな事象、テーマについて、論理的に意見を発信しているし、僕は僕で、ものすごくたくさんこの戦争について意見を書いているわけで、そう簡単にお互いの意見をころっと変えたりは絶対しないと思うのだけれど、それでも「どこまでは合意できて」「どこはどうしても賛成できない」ということなのか、ということを、罵り合いや完全殲滅、存在自体を否定しあうカールシュミット「友敵家系」みたいなことにならず、できるかなあ、できないかなあ、ということについて、ちょっと、おそるおそる書いてみようという試みです。

では本論

  細谷雄一氏の主張と言うのは、ロシアの今回の行為というのは、国際社会が平和のために積み上げてきた「国際法秩序」を破壊するものである。戦争と言うのは違法なものであり、違法行為をしたのはロシアである。「どっちもどっち」論と言うのは、そうした「国際人道法」や「戦時国際法」などの方の秩序でもって戦争をなくしていこうということへの挑戦、破壊である。ということですよね。

 で、この今回の戦争を「2月24日のロシア軍の侵攻」という地点から見た場合、これはロシアが100%、違法な戦争をしかけたことは確かなわけです。

 で、これに反対する「どっちもどっち」論には、いくつものアプローチがあるのですが、いちばん大きく分けると「過去の経緯」という過去の原因に向けた議論と。「これからどうする」という、現在と未来に向けた議論です。

 過去の原因をどう考えるか議論には、タイムスパンの捉え方で多様な議論があるわけです。この戦争の前段階をどこまでさかのぼり、何を戦争の原因と考えるかの様々な議論です。

この戦争の原因を考える議論について。 

 細谷氏の議論は、そのような背景があることは否定しないが、こと「2月24日の侵攻以降」について、ロシアが違法な戦争を始めたことは明らかなので、その点をそれ以外の理由であいまい、相対化することに反対しているわけです。「たしかにロシアが悪いが」と保留をつけたふりをして、どんどん相対化していく論者に対して、「そういう態度は全部なし」と断言するのが細谷氏の態度と言えます。

 ですから、細谷氏に対して、「いやミンスク2の停戦合意に違反してトルコ製ドローンを使って攻撃しかけたりしたのは明らかにウクライナだと、欧米のメディアも日本のメディアも昨年夏段階で報じているじゃないですか」みたいなことは、言ったらいかん、というのが、細谷氏の立場なわけです。

 で、この「どこまでさかのぼるか」議論と言うのは、実にいろいろあるわけです。

 その遡り方にはキエフ大公国の話までさかのぼる話もあれば、第二次大戦中からの経緯を語る人もあれば、ソ連崩壊後の国境線引きの話もあれば、核兵器放棄のときの協定の話もあれば、オレンジ革命からマイダン革命から、そこでのアメリカやカナダの、ウクライナ移民カナダ人の活動や、アメリカの民主主義拡大GOの活動の話から、ジョージソロス氏の活躍からバイデン息子の話まで、あるいはロシア正教とウクライナ正教とカトリックとその中間会派の宗教確執みたいな話まで、まあいろいろあるわけです。語り始めると。

 細谷氏は「そういう話はさておき、2月24日に始まる侵攻におけるロシア100%悪いは、相対化してはいけない。」という立場なわけです。

 「2月24日の侵攻という国際法秩序の破壊者たるロシアを正当化することは、それ以前のいかなる経緯をもってしても、絶対にできない。」

 了解しました。それには同意することにします。

 では、過去の話ではなく、現在と未来について。考えていきましょう。

これ、現在未来と言うこともあるけれど、ロシアを擁護したりしているというよりも、ここまでロシアによるウクライナの民間人犠牲者が出ていることを考えると、戦争が続くよりも、とにかく停戦したほうがいいんじゃないか、という判断を前提としていると思うのだよな。

 伊勢崎氏も、実は、過去のことではなく、戦争のこれからについて「民間人の犠牲をこれ以上増やさないためには、とにかく停戦を早期に実現することが最優先」ということをずっと言っているわけです。停戦から和平プロセスを実務家として数多経験してきた伊勢崎氏は「悪魔と交渉するのか」という批判に、戦争を止めるには、悪魔と交渉していると批判されても、そうするしかない、と語り続けているわけです。

①細かな和平の条件は、停戦をしてから交渉すればよい
②停戦を合意するのは戦争当事国である。
③戦争当事国双方が、とにかく停戦合意できる条件をどうするか、それを仲介するのが第三国の役目。

で、なんと、細谷雄一氏も同じことを言っています。


「皆さん、戦争がどうやったら終わるのか?ということを繰り返し質問なさっていますが、基本的に国際政治学の基礎として(最近は「外交史家」と自称しますが)、主権国家体系、つまり国家の上位に超国家的な存在は(EU以外)ないので、戦争を始めるのも、止めるのも交戦国自らのみしかできません。」

ただし、ここからが、細谷氏と伊勢崎氏の意見が対立する点です。

細谷氏は

「ウクライナ軍は、ロシアの国土で戦争をおこなっているわけではない。あくまでもロシア軍が国境侵犯し、ウクライナ国内で武力を行使しているのだから、ロシア軍が戦闘をやめて、ロシアへと撤兵すれば、戦争は終わることになる。簡単です。それ以後のことは、停戦後に外交協議で話し合えば良い。

一方の伊勢崎氏は、プーチンが悪魔だとしても、悪魔と交渉しないと停戦は実現しない。プーチンがロシア国民に対して格好のつくおみやげというか成果を持たせることでしか停戦合意には至らない、と繰り返し述べています。

つまり、細谷氏は「ロシアが一方的に悪いのだから、ロシアがウクライナから撤退すれば戦争は終わる」と言うわけです。対する伊勢崎氏は、停戦を実現するには、プーチンがロシア国民に格好のつくところで、交渉すべきだ、と言っているわけです。

細谷氏と伊勢崎氏の対立点、そしておそらくはN先生と私の対立点というのは、この一点なのではないかと思われるわけです。

この点について、私の考えをもうすこし掘り下げて行きます。

 この細谷氏の立場を敷衍していくと、もし、ロシアがその気がないとすると、どういうことになるかというと「ロシアがウクライナから完全撤退するまで、ウクライナが戦えるように武器を供与し続ける」「ウクライナが勝つまで戦争を継続すべき」になってしまいますよね。

 アメリカとイギリスの立場はまさにこれです。全く停戦する意志がない。勝つまでとことん武器を供与する構えです。そのことの動機を「軍産複合体が」と語ると陰謀論と批判されるので、それは言わないことにしましょう。あくまで正義の問題として、「一方的に悪いロシアがウクライナ領内から完全撤兵するまで、武器を供与して戦わせ続ける」しか、戦争の出口がなくなってしまいます。

  ここで私がこの戦争についてずっと書いているのは、ロシアの味方をしているわけではなく、「米英はとにかく戦争を継続して、ロシアが完全敗北するまで戦う立場であり、停戦への熱意がまるでない。それはウクライナの市民にとって不幸なのではないか」ということを批判しているわけです。

 では、どの立場を支持しているかというと、トルコやフランス、と言い続けているわけです。米英とは立場を異にしており、とにかく一刻も早い停戦を実現するために、プーチンとの会話する回路を保持し続けています。そのことでマクロンは批判も食っていますが、そこは一貫してるいる。私は、マクロンとエルドアンの立場努力を評価し、バイデン、ジョンソンの姿勢を批判する、という立場で、この戦争について一貫して論じているわけです。できれば、日本も、米国の腰ぎんちゃくのようにふるまうのではなく、ロシアの隣人として、フランスやトルコとともに、停戦に積極的な役割帆果たせないのか、という立場なわけです。

 私が、毎朝、NHKBSのワールドニュースをフルに見て、また昼日中はCNNとBBCを垂れ流してみている立場から、「BBCやCNN」という米英の立場というのは、国際的に見て、いちばん「戦争継続に積極的、好戦的」な立場であって、ドイツのZDF(は経済的弱みという背景があるにせよ)、フランスF2、アルジャジーラといったところの報道は、米英とはずいぶん異なるスタンスだということを、この戦争を通じて、レポートし続けてきたわけです。

 マリオポリの製鉄所に、アゾフ部隊2000名程度と民間人が包囲され、孤立無援になっています。これに対してロシアは「兵士は投降すれば治療もするし国際法に準じて処遇する」「民間人は避難できる人道回廊を確保している」と呼び掛けています。西側メディア、フランスF2なんかは、ロシア側の軍に同行して、取材をし、人道回廊が確保されている状態を確認しています。米英メディアは「シリアでは人道回廊を設定しておいて、一般人がそこで避難しようとするところを虐殺した。その二の舞になる」と早い段階から主張していましたが、今、ロシア軍と同行してフランスメディアも取材している状態で、そのようなことが起きるか、フランスメディアも取材している中で起きてしまうのでしょう。疑問です。

 保守派知識人、元経産官僚の八幡和郎氏が「沖縄戦のときの日本兵のように、投降しようとする一般人をアゾフ部隊が妨害しているとみるのが妥当」という意見の方が説得力があると思いませんか。もしくは、「アゾフ部隊も投降したがっているのを、キーウ政府が止めている」という情報すらあります。

 「マリオポリの部隊が全滅したら、停戦交渉はやめる」とゼレンスキーが言っている。そして投降を止めている。ロシアは「投降しなさい」と言っている。人道回廊が設定されている。それは西側メディアも監視して、安全に避難されるかを監視する状況にある。

 さて、戦争を続けたがっているのがどちらで、停戦をしたがっているのはどちらか、これは明らかですよね。米英の考えているやっていることは細谷氏の言っていることと同じです。この戦争はロシアが一方的に悪い。よって、ロシアが敗北して、ウクライナ領内から撤退するまで、徹底的に戦う。そのための支援はアメリカはとことんやる。武器の供与も、経済的支援も、ロシアへの経済制裁も徹底して長期戦の覚悟でやる。

 ウクライナ東部南部にはロシア系住民が多数の地域が多い。公用語としてのロシア語をゼレンスキーが廃止したのは事実です。そういう地域で独立運動や、クリミアでロシアへの帰属を喜んだ市民がいるのは、これは事実です。そうした親ロシア派住民をウクライナ国粋主義者が迫害弾圧したのも事実です。ただし、こうした地域は「両方の立場の市民が混在」しているので、どちらかを立てれば、どちらかが苦しむ。イスラエルとパレスチナと同じような「映画館のひじ掛け」問題地域(これについては以下noteを参照)なわけです。異なる言語民族文化宗教背景の人が同じ地域で混在するのを、国家間の戦争も、住民同士の紛争も抑えて統治する知恵と言うものに、残念ながら人類はそれを持つに至ってはいません。今、エルサレムでは各宗教のお祭り時期に、残念な紛争がまた勃発していて、アルジャジーラのニュースはウクライナ戦争よりそちらがメインになっています。

 ロシアへの経済制裁は、正直、効いていません。ルーブルは一時下落したけれど、すぐに持ち直しました。この戦争でいちばん下落した通貨は円でしょう。下落しっぱなしです。ロシア産の原油やガスの買い手は、インドだの中国だの、いくらでもいる。経済制裁のダメージはフランスやドイツや日本のような、制裁をしている側にきつく跳ね返っています。

 こういう視点を総合すると、一見中立的に見える細谷氏の論と言うのが、著しく米英の立場を、「国際法秩序」の美名のもとに擁護推進するものに思われるのだが、というのが、私の立場意見なわけです。

 やはり戦争について冷静に論じるのはなかなか難しいなあ、と思います。

 しかしまあ、世界がロシアや中国のような「権威主義型の自由のない国」と、自由と民主主義が、言論の自由がそれなりに機能している陣営に分かれるのであれば、それは私も「自由と民主主義」側に生きていたい。そちらの世界に、より多くの世界の人たちが生きられるようになった方がよい、というのは思うことです。しかし、そこに至る道は、その他の条件、歴史や国民性や宗教や、そういうことで国ごとに様々です。自由と民主主義を他国に押し付けることが戦争の原因になることは、冷戦後の世界、歴史が示していると思います。

 ではどうしたらいいか、の正解は無いけれど、「米英のやること」しか自由と民主主義の側にはやり方が無いのか。そこは、フランス、ドイツ、あるいはイスラム圏やインドや台湾といった、文化宗教のバックグラウンドが異なる国で、どうやって民主主義と自由を、すこしずつ実現していくのか、戦争をせずに。そういう可能性というのを、この戦争を通じて、議論していければなあ、と思うわけです。

下のnoteも、わりと関係あると思う。



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