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あと半年、2023年の2月には60歳になる。それまでに「60歳になる私は、この世界を、人生を、だいたいこんなふうに分かって/分からずに、正しく/間違って 生きてきた。」ということについて、書いていこう、と思いついた。

 本を書く人と言うのは「あなたが知らないこんなことを私は知っているから、教えてあげたい」ということで、本を書くのだろう。

 逆の立場から見ると、本を買う人と言うのは、「私が知らない何かについて、よく知っている人が教えてくれる」ということを期待して、本を買って読もう、と思うのだと思う。多くの場合。

 私はときどき「自分の言葉で、ひらたい言葉で、一から考えて書いてみる」という文章を書くことがある。「民主主義って何だろう」とか「宗教ってんだろう」とか。

 あれを書くときの気持ちを自分で振り返って考えて見ると、「60年近く生きて来て、そういう大事なことについて、自分はどういうふうに理解しているのだろう」ということを確認しようとしているのだなあ、と思う。誰も知らない何かを知っているわけでもなく、誰も考えたこともないオリジナルな考えを持っているわけでもなく、「この程度の漠たる理解で60歳まで生きてきた」ということを確認するために、ああいう文章が書きたくなるのである。

 私の書く文章と言うのは、よく考えると、すべて、このスタンスである。何かについて、人が知らないようなすごいことを知っているわけでもない。すごくオリジナルな考えを持っているわけでもない。そういう自分の考えを、とりあえず文章にして確認してみるために書いている。だから、それは本にはならないと思うのである。価値がない。

 いろんことについて、すごく良く知っているわけでもないし、すごく良く分かっているわけでもない。しかし、皆目見当がつかないわけではなく、なんとなく漠然と、こういうことだろうと思って生きているうちに60歳になろうとしている。

 もちろん、私にも「専門」というものはあった。過去形だが、あった。

 広告業界のマーケティング屋として生きてきたので、広告マーケティングのあたりについては、まあ割と分かっている。専門家であった。

 ただし、テレビ広告や新聞広告がメインの、「マス広告」というのが主流の時代の広告マーケティングの専門家だったわけで、インターネット登場以降のマーケティングや広告については、正直言うとよく分からない。

 わかったふりをして仕事の最後の10年くらいは仕事をしてきたが、分からないというか信じていないというか好きじゃないというか、インターネットの広告まわりについてはそういう気持ちが強い。

 今、「広告やマーケティングについて学びたい」という人の大半は、インターネットを使った広告やマーケティングについて学びたいのである。つまり、私は時代遅れの用なし人間なわけである。だから、もう今さらこの時代遅れの用なし人間が、好きでもないし信じてもいないインターネット時代のマーケティングや広告について勉強しようとも思わないし、ましてや分かったふりをして先生のような仕事を受けたり本を書いたりというのは、たとえ要望があったとしてもするまい、と思っていたら、心配するまでもない、そんな要望はとんとなく、無事に無職の隠居となりおおせたというわけである。

 仕事をして生きていた頃は、「民主主義について」とか「宗教について」とか「戦争について」なんていうことを深く考えるということは無かった。広告マーケティング屋には問われることは無かった。仕事に追われ、そういう大事なことは深く考えずに何十年か過ぎてしまった。

 いやもっと身近な「少子化問題」とか「子育て・教育問題」なんかについても、深く考えることは無かった。

 子供はたくさん育てたが、金と手間をかけて勉強させたりスポーツを叩きこんだりして、大学までなんとか入れてしまえば、あとはそれぞれが勝手に大人になっていくものだと思っていた。全然、そういうものではなかった。自分の育て方が子どもにとって「毒」になってしまうという自覚がなかったのである。

 そういう、本当はとても大切なことなのに、よく考えずに生きてきたことがたくさんある。大切なことをよく考えずに、よく知らずに60歳になるというのは、なんというか、恥ずかしいというか、悔しいというか、そういう思いが日に日に強くなる。

 60歳を間近に、ここまで生きてきた中で、何がわかっていて、何が分かっていなくて、何はまあまあ正しくできたけれど、何は大きく間違えたのか。

 「世界というのはだいたいこういうふうにできていて、こういうまずいことがときどき起きるわけだ」「日本の社会というのはだいたいこういうふうな仕組みや特徴があって、この辺はまあ世界の中で比べても日本のいいところだが、こういうところはかなりマズイので、よく注意しないといかんなあ」「人の人生、一生というのは、だいたいこういう時期に分かれていて、(どう生きるかは個人の自由とはいえ)、こういうことをしてしまうとヤバイ。死んでしまったり、ものすごく不幸になったり、周囲の人を不幸にしたりするので、こういうことだけは注意したほうがいいぞ」みたいなことを、60年間、うすらぼんやりと生きてくると、まあ、こんなぐらいの認識に人間というのはなるものだというサンプルとして、書いてみようかなあ。

 あと半年、2023年の2月には60歳になるので、それまでに「60歳になる私は、世界を、人生を、だいたいこんなふうに分かって/分からずに、正しく/間違って 生きてきた。」ということについて、書いていこう、と思いついたのである。

 これから正しく生きていこう、意味のあることを新たに始めよう、と思わないところが、いかにも私らしいなあと思う。何かするのはもう辞めたのである。考えて書くだけ。

 思いついたけれど、うまくいくかどうかは分からない。分からないけれど、思いつきは、書いておかないと忘れてしまう(なんといっても物忘れもひどくなってきた老人なので)、とりあえず、忘れないために書いておく。

 備忘録というのはよくできた言葉だな。備忘録です。 

 

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