どうする家康 第七回「わしの家」 祝・古川琴音ちゃん登場。見ながら、演技って、ということをつらつら考える。

 「どうする家康」、とりあえず、冒頭で名前は「元康」⇒「家康」にはなったが、三河一向一揆の鎮圧に今回次回二回使う予定なことはわかった。やはり前回予測した通り、瀬名の死で最終回を迎えるくらいの、ゆっくり進行である。

 今回、私的に最大の見どころは、古川琴音・登場である。有村架純も大好きだが、古川琴音も大好き。なんと、松潤・家康と趣味が一緒、ということであるな。

 たぬきメイクになった有村架純と、白拍子風、眉毛のない妖艶メイクで舞い踊る古川琴音。もう、超・大満足である。

 古川琴音演じる千代、歩き巫女である。「鎌倉殿」では歩き巫女は大竹しのぶだった。なるほど、古川琴音は、ちょいと若い時の大竹しのぶと個性が被るかもな。今回は一向宗本證寺の和尚、大誓の女、と言うような役回りで登場だが、今後、ずっといろいろな場所に出没して家康と絡んでいくらしい。

 有村架純と古川琴音と言えば、金子茂樹脚本の大傑作ドラマ、『コントが始まる』で、姉妹を演じた二人ではないか。そうそう、あのドラマでこの二人と絡んだ主演男優トリオは、菅田将暉、仲野大賀、神木隆之介という、若手俳優演技力トップスリーの競演だったのである。あんな演技力オバケと共演した有村架純や古川琴音が、このドラマでの松潤の演技のことをどう見ているかと思うと、心が痛いなあ。

 この前から、松潤の演技がなぜダメか、ということについてつらつらと考えている。今日はここでちょいとその方面の考察に脱線する。ちょとどんどん脱線して、すごく長くなります。

 話はジャニーズ先輩の草薙剛くんと木村拓哉さんの「演技力」という話に飛びます。ちょうど今日、ネット記事で「【中間発表】1月期ドラマ 「演技が光っている主演俳優」1位は草なぎ剛」というのが出ていました。その数日前には、草なぎ君の演技力を褒めつつ、木村拓哉がSMAP解散騒動以来、いろいろと悪役イメージがついてしまい、難しい時期にあるというネット記事も出たりしていました。「キムタクが抜け出せない“SMAP解散騒動”の呪縛…演技で評価を上げる草彅剛と対照的」(日刊ゲンダイdigital)。

松潤は嵐において、SMAPにおける木村拓哉と同様「一番のイケメン・センター」ポジションで、「堂々、真正面から衒いなくカッコイイを演じる」という役割を与えられてきたのである。しかし、全盛時の木村拓哉には、堂々と王道でカッコいいを演じて、「何を演じてもキムタク」だが、それが「キムタクファン」以外にも、有無を言わせぬ魅力、カッコよさとして伝わり、主演ドラマはどれも圧倒的人気を獲得してきたわけである。

 一方の松潤は、そのアイドル的キャリア全盛期主演ドラマにおいても、例えば2012年のフジテレビ月9「ラッキーセブン」でも、主人公探偵役だったのに、途中からドラマファンの間で「準主演の瑛太の方がかっこいい、もう瑛太が主演認定でいいんじゃね、」となるという、ていたらく。というか、今回の家康同様に「演技が下手」「いないほうがいい」的評価になっていたのである。キムタクと較べると、松潤と言うのは、演技力、ドラマで主人公を演じた時の魅力の低さというのはその頃から定評が固まっているのである。

 キムタクは、「真正面からカッコいい」を演じた時、キムタクファンはもちろん「キャー―――最高」になるだけでなく、別にキムタクファンではない多くの人が「さすがに魅力的だよな」と納得させる華が、魅力があったのである。一方の松潤の演技は、ファンのみが「キャー」であり、ファン以外から見ると「薄っぺらいな」になるのである。昔も今も。

 さて、草なぎ君である。彼がそんなに演技力が高いかと言うと、僕はそうは思わない。が、明らかに「自分がアイドルグループセンターのような容姿にも華のある魅力にも欠けている」という自覚を持つところから、草なぎ君はスタートしていると思うのである。その上、きっと「演技もそんなにうまく出来ないな」という自覚が加わった。にも拘わらず、主演ドラマが次々決まる。ここで草なぎ君は考えて、自分らしい演技アプローチを見つけたのではないか、と僕は推測するのである。

 それは「引き算の演技」をするという解決策だと思うのである。デフォルトの「優しい表情、やさしい声」というのを演技のベースにして、なんらかの激しい感情を表現するときに、表情を無くす、引いていく、というアプローチを身に着けたのである。悲しくても無表情になる。怒っても無表情になる。大げさに悲しみや怒りを表現しても、どうにも下手でわざとらしいと自覚して、そういうときは「無表情になる」という解決策を見出したのである。「優しい笑顔が消えた」ことで、怒りや悲しみの感情を、そこに読み取ってくれる。セリフもそういうときには棒読みに近くする。表情も台詞回しも「引き算」をし、見る側がそこに勝手に感情を読み取ってもらう。草薙演技の中心は、このアプローチである。いわば、まったく変化しない能面で様々な感情を表現する、能の演技アプローチである。

 この草なぎ君の「引き算の演技」に対して、松潤の演技は「紋切型の足し算」演技である。

 もともとの濃い顔の造形の上に、「嬉しいを表すとき、普通、こうやるもんだ」の嬉しい演技を大げさに足し算する。「悔しがっている」「怒っている」「怖がっている」、全部。普通、こうやる、という「定型・定番」の演技を、大げさに表情や動作としてのっけるのである。草なぎ君の「能」に対して、「歌舞伎型」と対照させてもいいかもしれない。

 「紋切型を楽しむ」と割り切ればいいのかもしれないが、それにしても、薄っぺらなのはなぜだろう。

 ここで、「菅田将暉と古川琴音」の話に飛ぶ。この二人、菅田将暉が歌ったドラえもん主題歌「虹」のプロモーションビデオで、赤ちゃんを育てる若夫婦役を演じている。この中で、菅田君古川さん、それぞれに、すごいなあ、とうならせるスーパー演技力を披露しているごく短いカットがそれぞれにある。

 菅田君については、赤ちゃんに哺乳瓶でミルクをあげながら、寝落ちしてしまった菅田君が、古川若妻につっつかれて、目を覚ます、という短いカット。

 居眠りをしているところを起こされると、意識はまだ夢の中に大半があって、目の焦点が合わない。目の焦点が合って、目の前に妻の顔があっても、すぐに誰なのか、そして状況が認識できない。無表情である。と、ようやく状況を把握して目の焦点が合う。そして照れ隠しの笑顔になる。

 この、「居眠りしているところを起こされたときに人間はどうなるか」について「はっとびっくりして起きる」(松潤ならそう演じるだろう)ではなく、夢の中、目の焦点が合わない、目の前の人が誰か一瞬分からない、状況が分からない、というプロセスを、正確に演じるのである。菅田将暉は。おそらくNGがかかっても、何回でも同じコントロールで演技ができるはずである。

 古川琴音若妻も、後ろを向いて、赤ちゃんを抱っこしてあやしている。そこを菅田夫に後ろからつつかれる。と、振り向いたときの琴音ちゃんの表情が、ものすごく険しく攻撃的である。これ、動物や鳥のお母さんが子育て中に、ヒナを守るためにものすごく警戒心が強くなるのと同じ状態になるので、ときどき起きることである。僕も妻に、この反応を何回もされたことがあるなあ、と思い出した。動物としての母親の、子どもを守る反応・反射で起きる表情である。そして、一瞬の後には「動物的攻撃性⇒人間の母、妻」にモードが戻って、笑顔になる。これも、古川琴音さんは、全部意識でコントロールして、その表情変化を演じているのである。

菅田君古川さん、どちらも、ごく短い一瞬の、人間の、生理的・動物的・心理的変化がどのように起きて、どういう表情と身体動作の変化が短い間に起きるかを、第一に、よく観察している。他者を観察している。そして自己分析している。そしてそれを演技要素として再構成して、何回やっても正確に反復できるようにコントロールしている。

 ここにおいて、「自分をかっこよくみせよう」とか「自分を可愛らしく見せよう」という意識、要素をどの程度まぶすかについては、「そのカットの作品の中での位置づけ」「演出家の意図」との関係だと考えているに違いない。それが必要とされているカットなのか、そうでなく、自然に、リアリティあるように演じるのか。

 これと対比すると、松潤の演技がどうダメなのかが、よく分かる。まず、「そのとき、人間のカラダや表情は、どの様になるものなのか」ということについての「他者の観察」というものが、決定的に欠けている。これは宮崎駿がダメな若手アニメーターに「本当に春巻きの硬さの食べ物をほおばる、咀嚼するとき、人間の顔、動作がどうなるかをちゃんと観察しろ」とか「人が他人をおんぶするとき、どういう動きをするかをちゃんと観察しろ」といって、何度でも若いアニメーターにNGを出す(「もののけ姫ができるまて」ドキュメンタリーに詳しく記録されている)と同様である。他者への興味、人間観察力が低い状態でのアニメーションも演技も、嘘くさく薄っぺらに見えるのである。

 松潤には、他者を常に観察し考察・分析し記憶し、それを動作として分解し、自分で反復再生可能にしようという意識も能力も決定的に不足しているように思われる。

 松本潤の演技は全てが「キャー、カッコいい」と言ってくれるファンに向けて「僕が、かっこよく、今から、悲しみます」「僕が、今から、かっこよく、怒ります」という、「アイドルセンター、僕が」「かっこよく」「何かをする」という優先順位で組み上げられているのである。「アイドルである僕が、今から、かっこよく、ドジをします」とか。

 キムタクの場合、そういう意識でやったとしても、これは奇跡のように、「ファンでない人にも、かっこいいじゃん」と思わせるカリスマ的スター性があった。これは木村拓哉というスターの奇跡である。残念ながら、松本潤にそのカリスマは無い。

 紋切り型の足し算演技を、人間観察の蓄積も、身体表情コントロールの高度な技術もなく、「ぼくがかっこよく演じます」と演じる。ツイッターで松潤の家康に「泣いたー」と言う人はいる。が、しかし、ほぼ間違いなく、松潤ファンであろう。

 松潤の話はおしまい。

 今回、久しぶりに登場のムロツヨシ秀吉、いやあ、すごいうざくていやらしくてしかも仕事はできる秀吉を造形している。

家康に向かって

「いやあ、お方様とお子さん、取り返しなさってまこと喜ばしいことでございますなあ。長いことはなればなれになってりゃあしてねぇ・たまらんこたなあ、うーん。夜と言わず昼と言わずでごぜえましょう、ふっ」と言いながら腰を振る。もう下品極まりない。座って話しながら腰を自然に振り始めてしまうあの演技、ムロツヨシの独自解釈なのかな。すごい下品さで素晴らしかった。

 最後、一向宗の無政府主義コロニーみたいな描き方、今ちょうど読み終わろうとしている本と関係深く興味深かったな。

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