ちょっとした思い出の羅列①


3歳くらいの頃、うちの裏の家に同い年の双子が住んでいた。くりくりしたツリ目の双子。特に仲が良かったわけではない。私は幼稚園で背の順で後ろから3番目で、1番うしろの子はもう大人用の自転車に乗れていた。梅なんちゃらさん。

小学生の頃「見えていないところでは何が起こっていても不思議ではない」と思って自分が想像したことを喋っていた。私としては「本当に起こった(かもしれない)」こと、だから嘘ではなかった。私たちがふつうに帰っている間に、後ろではタモリが音を立てないように素早く道路を横断しているんだよ、みたいなことを言っていた気がする。さすがにそんなわけないだろ、と今なら思うんだけど、当時は「頭の中に浮かんだものは起こり得るもの、起こったかもしれないこと」だった。友達にはふつうに「そんなわけないやん」と怒られた。

小学校にはクジャクの太郎くんがいた。

中学1年の頃、一部の女子はイケメンにめざとかった。陸上部の森井くんは無口だし女子とは全然関わっていなかったけれど、顔が整っていたのでひそかに注目されていた。森井くんは基本的に同じ陸上部の吉田くんと一緒にいた。吉田くんは背が小さく、目つきが悪い男の子だった。ふたりともよく日に焼けていた。中1の終わり頃、クラス替えの前にサイン帳(名前や趣味を書く紙)を配る流れがあった。後から聞けば「渡そうかどうしようか」「渡すなら誰が渡すかな」みたいな水面下の争いがあったらしいが、私はそれに気付かずクラスの全員に紙を配った。回収したら、森井くんが名前のところに「筋肉盛盛盛盛井」と書いていた。吉田くんとなんか笑いながら書いてるなと思ったらそういうことかい、と思った。他の項目もぜんぶボケていた。吉田くんもボケていた。若干吉田くんのほうがシュールな感じだった。

中学では、男の子たちがよく殴り合いの喧嘩をしていた。ガッと喧嘩して終わったらふつうにお弁当を一緒に食べているのは変な気も、良いことな気もした。

中3の担任が理想を高く掲げるタイプの女性だった。小柄で華奢でぱっと見は穏やかな国語の先生だけど「品行方正なクラスにする」ための規制を惜しまなかった。各クラスの代表として定められているのは議長が男子1人、副議長が男女1人ずつで、大体は立候補や投票で決まるものだった。なぜかうちのクラスは担任からの指名で決まり、毎日その3人が揃って職員室まで行かなければならないルールだった。私は副議長で、他の2人と仲が良かったので、遠い職員室までおしゃべりしながら行くのが苦ではなかった。私含む3人はクラスの成績上位3名だった。彼女は、優秀な生徒3人が毎日従順に職員室まで出向く構図が作りたかったのかもしれない。

夏頃の三者面談でその担任に県内トップ校を勧められて「今の状態から全く成績が変わらなくてもいける高校にします」と断言した。彼女はずっと不満そうだった。母は「この子がそうしたいなら」と言った。

高校生の頃「大学に進学せず文章を書く専門学校に行きたい」と言ったら母親は「せっかく大学に行ける学力があるんやから、それを大事にしてほしい。ママはピアノしか弾けへんしパパは何浪もして苦労したから、あんたは良い大学に行ってほしい」と言った。そうしないと全てのお金の援助はしません、と言われた。幼少期に泣いている私を容赦なく怒鳴りながら毎日何時間もピアノを弾かせていた母の姿が少し思い出された。親の希望。

高校あたりからどうしても午前中が苦手になった。中学でも自分が覚えていないだけでめっちゃくちゃ寝ていたらしいから、そういう体質なのかなとも思う。家を出て、学校に遅刻連絡をして、図書館とか喫茶店で好きな本を読んでから高校へ行っていた。

大学生の頃、塾でバイトをしていて、講師仲間の子の実家で麻雀をしたことがあった。かなり田舎の方の立派なおうちで、内装の中心に使われていた深い色の木材の色が格好良かった。

「兄やん」と呼んでいる京大生の先輩がいた。兄やんも私のことを「〇〇やん」と苗字にやん付けで呼んでいたから、校舎全体がなんとなくそうだったのかもしれない。兄やんとは恋愛のにおいはなかったが物凄く仲が良かった。重要な思い出が多いが、それらは割愛してちょっとしたものを挙げるなら「最近こんなひとらを知って、やってることめっちゃアホやけどおもろいからよく見てる」と教えてくれたのが流行る前のゴールデンボンバーだったこと。あと社員さんちでみんなで遊んだときにぷよぷよで50連戦くらいして知恵熱みたいになって2人ともバテてた。

大学生くらいの頃に地元の幼馴染と公園で喋ってたら、小〜中学生の女の子らが鬼ごっことかキックベースとかをやっていて、ぼーっと見ていたら「混ざってくれませんか?」と言われたので一緒に遊んだ。


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