雑記(シヴァ神の瞑想など)


前回に引き続き、普段何を考えているかの思考モジュール収集をその後も意識してみたんですが、やっぱりあんまり「考えてない時間」多いですね私(笑)。


ついさっきも部屋に置いてある木製の棚の「扉の模様」をただじーーーっと見ていました。わりと長い時間(笑)。


仕事をしているPCのある部屋。窓の外に木があって、その枝にたくさん鳥が来るんですね。昼間はその鳥の声をじーーーーっと聴いている時間がしょっちゅうあります。夕方以降は、今の季節だと秋の虫たちの声がたくさん重なってくるので、それをただ聴いています。別に聴こうと思って耳を傾けるのではなく、気づくとじっと聴いています。


あとは、ヨーガでムドラっていう手の形(手印)がいろいろあるんですけど、(知名度の高いものだと親指を人差し指を輪っかにしたオッケーサインと同じやつ:チンムドラと言います)ああいう指の組み合わせ、指の配置なんかをやって、感触をただ感じていることも多いです。



自分のそういう状態をちょっと客観的に想像したり、その時の意識の状態を再現して見た時に、「いつかの何かと同じ感じ」という感覚が浮上してきました。


ああわかったぞ。
西アフリカに行っていた時のことだ。

と思いました。
(20代の頃、アフリカへ度々踊りを習いに行ってました)



ダンスの先生やドラマーの人たちはほとんどの方がムスリムで、彼らはお祈りの時間になるとそれまでワイワイ話していたところからサクっと「祈りモード」の意識状態に入ります。

最初、その時刻とかスタイルをよくわかっていなかった時は、あれ、なんでみんな話すのやめてしまったの、と思ったのですが、話しかけてもなんの反応もなく「ああ、お祈りしてるんだ」とわかりました。

日常のおしゃべりモードから、各々祈りのチャンネルに瞬時に入ります。いわゆる床に伏して頭を下げるような他者が見てわかりやすい祈りの姿勢でない場合も多く、それまでの椅子とか床に座っている姿勢のまま、意識がすこんと祈りモードに入るので、私たち異文化の人間から見ると最初わかりにくかったのです。

その時間が私は好きでした。時間が透明感を増していく、その周波数が好きでした。とにかく自然でした。



自分も変わったなあと思います。
昔は、一種神秘への興味や好奇心も手伝ってヨーガの知識にも技法にも没頭しました。そういう時代もあって良かったんだと思います。とにかく学んだし試したし、そういういろいろが私という農地を耕してくれました。しかし今は神秘とかそういうんじゃなくて、単純に「これがいいや」みたいな感じなんですよね(笑)



最近ことに、ただ見てるとか、ただ聴いてる、ただ感じてる、みたいな時間が思ったよりも多いな、と思いました我ながら。

もしもそういう人が身近にいたら「天然な人」「ぼんやりしてることが多い人」みたいに見えると思うのですが、そう、たぶんそれが人にとって「普通」「ナチュラル」なんだと思います。






■シヴァ神の瞑想タイム

もうちょっと言うと、生体エネルギーの運用にとって自然な状態で、そうあれることで「普通」でいれるんだと思います。

と言うのも、インドとかエジプトの神話に出て来る「神」というものを「エネルギー」として理解する内容なんかが書いてある高濃度なスピリチュアル系の本があるんですが、その中のどこかに、シヴァ神は高度なエネルギー体(意識)で、低次の(人間も含めたレベル)の意識次元で活動できる時間は限られている、1年活動したらそのあと14年は瞑想をする必要がある、と。


どこに書いてあったか探せないくらい分厚い本で(探すとまたこのメルマガを送るのが遅くなりそうなので今はやめときます)、「1年活動して」「14年瞑想する」という数字の部分が正確じゃないかもでしないです。もしかしたら「1時間活動/14年瞑想」だったかもしれません。ここでは数字の正確さではなく、生体エネルギー(意識)の運用についての真実を感覚で感じてみてほしいです。




「相対的な次元での活動」で使うエネルギーに対して、「相対を超えた次元での充電」(充電というのは比喩で、本来の状態にとどまっていることなんですが)がこのくらい必要なのさ、という話ですね。そしてこれはシヴァ神でなくても、人間にもあるんですね。



人間が行なっている「相対的な次元での活動」の最たるものは「言語的な思考活動」だと思います。これは声に出して発話しているものだけじゃなくて、頭の中での情報処理も含み、むしろそっちの方がメインです。「概念」を使っている思考作業のことですね。これがすごいエネルギーを使うわけです。内容がどうであるかというのはあまり関係なく、言語的な思考活動そのものに物理的エネルギーをそうとう使います。


シヴァ神が1年とか活動して14年くらい瞑想が必要だとしら、人間はどんな感じでしょうか。どのくらい「相対的な次元での活動」をするのかによって変わって来るのかもしれませんが、やはり「活動時間」よりも「瞑想時間」の方が長い必要があるんだと思います。



■快楽思考経路


知るうる限り、特に現代人はずーーーっと思考してますよね。ほとんどの時間オートマティックに思考が動いてしまう。あるいは「思考が動くこと」を好み、常に思考を動かしてくれる刺激を探しては貪っているような状態です。止めていられないんですね。

これはインドにおける身体論で考えると、なぜそうなっちゃうのかの一端を捉えることができると思います。


ヨーガの身体論で言うと、エネルギーは「一回通った道をもう一回通ろうとするから」と考えます。

砂場とかに任意で水が流れるように溝を作って流したとします。一回経路を作ると、次に水を流したら同じ溝を通る、だんだんと水はその経路ばかりを流れるようになるのをイメージするといいと思います。流れれば流れるほどに次の水もまたその溝を通ります。「思考」もそうで、一回考えたことでできた思考エネルギーの経路を、次の思考エネルギーも同じ経路を通ろうとします。この経路のことをヨーガの身体論では「ナーディ」と呼びます。

そしてナーディをエネルギーが「通った」時に電気的な信号が起こるのですが、その刺激を「快楽」として記憶するんですね。電気的な刺激の快楽は一瞬ですぐに消えてしまうので、また同じところに思考を流してまた刺激を得ようとします。この流れと経路の固定化は、日常的な言葉で言い換えると「同じようなことを同じような方向で考えること」「同じようなものを見て同じようなリアクションを起こすこと」と言えます。

極端な話、仮にそれがひどく苦しいタイプの思考内容だったとしても、刺激が大きい=気持ちいい、というパターンとして記録され、果てしなくそのパターンを繰り返そうとします。考えの内容の良し悪しは関係なく。そうやって偏った思考だけを使う、偏ったエネルギー状態になって、特定のエネルギー経路を使い潰すように消耗していくんですね。



シヴァ神は相対世界に長居すると、そのエネルギー活動で自身の本来性を保つエネルギー値が下がることを知っているんでしょう(神様だもんね)。その前に活動を止めて、瞑想に入ります。



人間はどうでしょう。思考の流動をなかなか自分で止められなくなって久しく、ナーディの変更もできず、どんどん自身の本来性を保てなくなって、短い電気的な信号という「かりそめの充電」を毎秒しながら生きている感じです。



シヴァ神が見たら「無理があるじゃんそれ」と言いそうですね(笑)。

「俺だって休むんだから、いわんや人間をやでしょ」とね。


太古の人間や神様(として表現されている存在)からすると「思考」は使いたい時に使いたい事柄に使えればいい機能で、酷使したりそれに見合った回復時間も取っていない状態が続くと、おいおい頭イカれちゃうよ〜と思うと思います。




■いたって正常

話を自分感覚に戻すと。

気づくと鳥の声を長いこと聴いているだけだったり、空や雲をただ見ているだけの時間が多いです。何か行動や作業をする時には思考は使うので、使ったらまた思考を使わない何か(虫の声を聞いてたり、棚の扉の模様を見つめていたり、ムドラをしたり)に自然と入るようです。1日の総計だと「思考オフ」の方が長いんじゃないかなと思います。正確に言うと「完全オフ」ではなく、どこかで「待機」が働いてはいると思いますが、とても静かな感じです。

わたしの日常を誰かに24時間見られたら、「休んでばっかじゃね?」と怒られそうです(笑)

人から見ればオフが長いと思うのですが、自分的には
このくらいでいいし、これで正常を保てる、と思っています。


短期的な快楽刺激型の電気信号はエナジードリンクみたいなもので、短時間の覚醒効果があってもその後どっと疲れます。糖質でいきなり血糖値があがって、一気に下がってパフォーマンスが落ちるのとも似ています。


鳥や虫の声とか、蜂の動きを見つめるとか、夕日が落ちるのを見守るとか、風で揺れているカーテンを見ているとか、あるいは腰を据えて瞑想に入るとか、人間って本来そういう事をいくらでもするのが「生体」としての自然なんだと思います。


そういうのを生産性がない過ごし方のように感じたり、そんなことにかまけている自分に罪悪感を感じちゃったり、無駄な時間を過ごしてしまったなと反省するのは、現代的な価値観なんだろうと思います。本質的には魂が漏電状態なのでそういう風に感じるんだろうと。




シヴァ神を見習おう。
シヴァ神だけじゃなくインド神話にはけっこう出てきます。
休憩長い神様。




■世直しするなら

もし私がこの人間世界の統治者になりましたら、まず「就労」に関して見直したいなと思います。

週休は4日が最低限。5日が望ましい。

1日の思考活動の稼動は総計で3時間ほど。その間に鳥の声をただ聞いたり、お気に入りの毛布やブランケットを触ったり、漬物をぽりぽり噛んだりする純粋感覚のみに浸る時間を含めてよし。

そんな感じです。

すごく現実味のない話ですね。もう少し現実に寄せましょう。


思考の休憩を長めに取りましょう。
それはいいことです。
その分思考を動かしたい時によりよく動きますので。


「止める」のが難しいのは知ってますので、ちょっとした工夫で思考休憩の質を上げるといいかなと思います。香りのいいお茶を淹れるとか、可能なら午後に10分とかでいいので仮眠を取るとか、人としゃべらない休憩とか、情報を見ない時間とか。とても小さな工夫で消極的とも言えるほどですが、毎日の中にそういう時間があることはやっぱり大事だと思います。




■めんどくさい

別の視点で。


俗に言う「思考停止」というのは、考えなくてはいけないことに対して鈍くになっている状態のことを言うんだと思います。これもこれで問題ではありますよね。

必要なことを必要なところまで考えきることができない。
あるいは、考えないといけないことを認知でもできない。


思考停止になってしまう原因のひとつは、前述の短期的な快楽刺激型のナーディ(経路)を使いまくっているからだと思います。普段から思考に刺激的な信号を浴びせまくって、ぐにゃぐにゃにしちゃったからですよね。ネットやスマホがない時代を知っている人はそんなことには等に気づいているけど、そんな大人たちであっても「大事なことを考える」のにはエネルギーも機動力も必要なので、まあいっかと情報の遊び場に入ってしまう。要はめんどくさいんですよね。



めんどくさい、って文明人の編み出した発明ですね。

そしてそれを利用して「めんどうを代わってあげる」システムやサービスがいっぱいできました。


こうやって「ヒト科めんどくさい類」が誕生し、面倒を回避するためのツールに取り憑かれていく人類。地球をぶっ壊してまで個人的めんどうを回避します。


なんて皮肉を言ってもネガティヴなので、ここはひとつその構図を利用するのがいいかと思います。


めんどくさいな、って思っていることを体張ってやってみようか。

きっといろいろあるでしょう。
小さなことから大きなことまで。



その岩をフィジカルにどかせば、生活中での新たなドアが開き、思考にもハリが戻ると思います。




今日はそんな感じです。

読んでくださりありがとうございます。

よい1日を。

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