思考いろいろ(雑記です)
対面の講座によく参加してくださる方に、メルマガ記事の内容で何かリクエストある?って聞いてみたら「普段考えていることを聞きたい」と。インド哲学的な内容とかもおもしろいけど、日常生活の中で思ったこととか、出来事にまつわるエッセイみたいなものも聞きたいです、と。
そっかあと思って、「日常の中で思っていること」で何か記事にできそうなことあるかな〜、普段何考えてるかな〜、って思ったのですが、あんまり考えてないですね!!(笑)
いやいや、もちろん思考はするんですけど、読んでもらうに値するような考えは「メルマガ書くぞ」ってPCの前に座ったことによって思考にスイッチが入る場合が多く、スイッチオフの時は本当にたいしたこと考えてないかもです。
しかも日常的には「思考オフ」の方を選択的にやっている傾向も強いです。何か思考が動いたら(その良し悪し関係なく)連鎖的な思考活動を止めるために呼吸をするようにしています。
しかしそう言ってしまったらおしまいなので、私なりに「思考を収集する」ことをやってみました。日々の中でちょこっと思ったこと(その後止めてしまうことも多いのですが)、そしてせっかくだから「夢」の内容をメモしてみようと思い、採取してました。
しかし・・・結果「なんだかよくわからないものたち」が収集されてしまい途方に暮れています。メモがおもしろかったのでちょっとご紹介します。
メモの文章は短いです。
■その1
「どんなに知的な人でも運動していない人の話は、話半分くらいで聞くのがいい。」
なんか厳しいですね!(笑)
運動好き人間の運動しない人へのマウントみたいじゃないですか(笑)
でもこれある意味私の本音なんだと思いますよ。
やっぱりね、身体活動あっての知性だと思います。思考の方に極端に偏ってしまった人はとくに、発想に身体のリアリティが浅い傾向があります。そして運動をすると意見も気分も変わったりするのが事実あると思います。(そうやって変われることが健康ってことなんだとも思います。)
ちょっとだけ誤解を招かないように補足すると、「では病気で動けない人は?」「体に事情があって運動できない人の話は?」と思うかもしれませんが、病気や障害などを持っている時点ですでに「どうやったって体に向かい合っていないといけない」というリアルを持っています。その時点ですでに多くの身体的真実にコミットしています。生活をかけて身体に向かい合うという日常がすでに次元の高い運動をしていて、そこから出てくる言葉というものはとても真に迫るものがある。
ここで言うのは、「とりあえず体は動くし」という無頓着さで身体運動を気にかけない、いろいろ言い訳して体に向かい合わない人を言っていて、そういう思考過多な人が放つ理屈は私にはあまり響かない、というところです。話を聞いていて「この人、たぶん運動とかしてないな」というのが内容からわかったりします。
なんかすごく運動信奉者ですね、私(笑)。
したほうがいいですよ〜〜。
■その2
「純度が高いって危険だね。」
これはわりとよく上がってくる思考モジュールのひとつかもしれないです。
「純粋」というのは良い意味で使われることも多いですが、極まった純度にはそれなりの危険が伴いますね。
精油とか。その純度の高さから直接肌につけたり口に入れたりはできないように、極まった純粋性にはパワーがあります。そのパワーはそのままだと暴力的だったりもします。これは善悪の話ではなくて。
人一人とっても、その人の中にある程度いろいろ混ざった状態になることで他者や環境に危険な影響を与えないバランスが取れていて、共存可能なところにいれます。そういうのを平凡と言うのかもしれませんが、たくさんの人と関わりながら生きて行くうえでの人間の進化の一種とも言えるのかもしれません。
これはよく絵を描いている時に思うことで、時々「もうなにもいらない」というような、純度の高い自己完結の意識に入っている時があります。このままそっちに振り切っていくときっと「偉業」を為すような作家になるのかもしれません。でも私の場合は、そこからバランスの世界に帰ってきます。なんででしょうね。たぶん、子どもがいるからでしょうね。自分しかいない真空宇宙からキッチンへ。翌日の娘の弁当の下ごしらえとかします。それでいいと思っています。もちろん別の生き方をする人もいてよくて。
ただ高純度の創作をすることを放棄しているわけではなく、日々の中で健常と異常の間を行き来している感覚もあります。それって出産に似ているなあと思ったりしますよね。分娩というのはかなり非常事態なんですが、普段は離れている「異常」と「非異常」が隣接してタッグを組むことで胎児を産道からひねり出せるんだと思います。激しい陣痛と静けさが交互に訪れて、何か新しいものが出てくるんだな〜、とね。
■その3
「"ちゃんと死ぬ” には、自分を使い果たすしかない。」
バガヴァッドギーター的な思考ですな(笑)。
わかってはいるけどできないのが人というもの。
“テキトウなあんばいで死ぬ” ので良ければ、そんな頑張らずに、余力残して死ぬ感じでいいのかもしれなですが、"ちゃんと死ぬ”を望むなら、自分を使い果たさないとですね。
まだまだすぎて先は長いです。がんばろう。
■その4
「楽して楽はない」
これ、最近マントラのようにあがってくるフレーズです。別に追い込んでいるわけでなく、楽のために楽だけ選んでても楽はない、と。ブッダ的な感じですね。なんらかの行為を通じた修行は必要だと思う。
もう老年になり人生いろいろ経験したらば「楽」を「楽」のままに過ごせばいいと思いますが、高齢でもなく、健康で、言い訳さえしなければ何かができる状態ならば、「がんばって」何かしたほうがいい。そう思っております。
昨今あまり流行らない発想かとは思いますが、努力って大事だと思っています。何かに励んだ者しかたどり着けない境地があるのは確かです。
自分で歩いて登った山頂の景色と、ヘリとかで山頂まで楽々運んでもらって見た景色では、同じ景色でも内容が違うという話で、両者ともに「すごい!絶景だね!」と同じ感想を言ったとしても、やっぱり内容は違うわけです。
苦労は買ってでもしろという昔の人の言葉は、人の心の性質を考えるとわりと普遍だと思うのですが、どうも昨今は「苦労」と「不幸」を一緒にしてしまっているみたいです。不幸をわざわざ経験しなくていいけど、それは「なにも努力しなくていい」ってこととはぜんぜん違うし、努力すればそれなりに苦しい時もあるけど、山頂の景色は深いものになります。それが人間力を育て人生を深いレベルで味わえる幸福だと思います。
楽を選びすぎると、伸びきったゴムみたいに感度の弱いふにゃふにゃ人間になるのは確実で、それでいいならいいけど、実際はそっちのほうが「苦しい」んだよね、だって「幸福」の感度もめちゃくちゃ下がって、退屈感への感度は上がるから。
ここからは夢メモ。
明け方とかの少し覚醒した時に見た夢だと思います。(そうでなければメモなんてしないでそのまま深く寝ちゃってると思うので。)
とりあえずキーワードだけが殴り書きしてあるメモです。
■夢メモ1
狙われる家族
暗殺チームから逃げる
ホテルの大部屋から移動
空間を内視する
みんなで瞑想
見えない存在になる
本当の色を見る集団になる
wwwww
すごい、エンタメ映画みたいな夢みてますね!!
しかも中盤以降スピ系で、存在がレベルアップしてるみたいだ。(ホテルの大部屋ってどんなだ?)
朝起きてこのメモを見て自分で笑ってしまいました。
誰か、これ漫画とかにしてください(笑)
ちなみにビジュアル的なものを覚えてません。メモだけが残っています。
■夢メモ2
「よりによって何もできない万歳の恰好で固まってしまった」
wwwww!
これまたぜんぜん覚えてません。メモで爆笑。
どういう状況だよ(笑)
はい、今日はこんな感じです(笑)
私の日常の「思考モジュール」たちから、でした。
読んでくださりありがとうございます。
よい1日を。
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