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わけない、じぶん(雑記です)

4月に書いて出したメルマガのアーカイブをこちらに載せ忘れていたものがありました。だいぶ時期がずれちゃいますが、載せときます。(2022.4.7の記事)


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うららかな陽気です。たまに突風です。時々雨です。

窓の外のビワの木にやってくる鳥たちは、日に日にむくっと太っていきます。恋と繁殖の季節が始まりますね。鳥たちの個体認識しようとがんばってますが、はたして毎日同じ子たちが来ているのかすらわかりません。

春ですね。


さて私も・・・

仕事の合間にちょこちょこ絵を描いています。

なかなか完成まで行かない作品がいくつか同時進行している感じです。


絵を描いていたり、物を作る作業をしていると、はやく完成が見たいという欲が湧いて、でもそればかりやってられなくて、傍に未完成のものがいくつかあるのを見ては「待ってて〜、これ終わらせたらそっち行くからね〜」みたいな、ソワソワ感があります。でも最近、そのソワソワフィーリングだけでない「別の感触」も心の中にあることに気づきました。

なかなかそれを言語化できなかったのですが、昨日ふと、午後の明るい日差しの中で手を加えられるのを待つ未完成の絵が並ぶの見て、

 「友達が増えたような感覚」

だと感じました。


絵は未完成。

それ以上に自分が未完成(笑)。


いつ出来上がるかはわかりませんが、同じく未完成のものとして一人友達が増え、生活の中でいっしょに佇んでいる感覚です。


そういう感触の中にいると、少しづつ姿を変えていく作品と自分を、そんなに早く早くと欲をかかずに、穏やかな人生の流れとして受け止める幸福感に包まれます。


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ある芸術作品に惹かれると、それを描いた(作った)作家のことやその人生が気になります。そうして調べていくと、一人の作家の人生とその背景にある時代が見えてきて、作品の見え方や重みが変わってくることはよくあることです。戦争をはじめとする激動の時代を生きた芸術家も多く、時代と境遇を背負って創作をしていた人生に、いろいろな思いが込み上げてきます。


 「芸術作品は部屋を飾るためにあるのではない。 敵との闘争における武器なのだ。」


とピカソは残しているように、ピカソに限らず多くのアーティストたちが、ある時は直接的に、ある時は隠語のように、ある時は無意識的に、創作を通じて闘ってきた姿が見えてきます。それは「人間の本来性の保管活動」のように感じられ、それをもって闘争と呼ぶのかもしれない、と。


こうしたアーティストたちの人生にはいつも鼓舞され、そして今を生きるヒントをたくさんもらいます。


今も世界の有様は酷いものなのは見ての通りで・・・そんな中でも、自分は平和に絵を描いている。時にふと見つめ直してしまったりします。

あれ、いいんだっけ?と。

ただ、そのような思いは、過度な情報の入力による単なる情緒的な心理から発生する場合も多く、それは本質的ではないわけです。ましてそのような思いで自分の現在を縮小させるのは誰の役にも立たず、「見つめ直す視点」自体が的外れであることを、過去の激動や困難な時代を生きた作家たちは教えてくれるのです。


以前にサンスクリット語の先生が度々おっしゃっていた、

 「 “答え” というのは、問いを発したと同時に生まれます。

 だから問いを間違えると、間違った答えを生むのです。

 (だから、どう問うかがもっとも重要なのだ)」


という言葉も最近特によく思い出します。この言葉は、習っていたサンスクリット語の知識以上にガツンときた重要な教えです。


的外れな問いをする・・・

すると的外れな現実が即座に立ち上がるwww こわ


自分はどうだったんだ。的外れな問いを無駄に連発しながら、たまにそこそこのヒットを打てたのかもしれない。あるいは、的外れな問いとともに雑多に顕現した「私の現実」を、単に鈍感さと丈夫な体だけで泳いでここまで来れたのかもしれない。ははははは。


話を戻しますと、


芸術活動や作品というのは、パッと見てわかりやすいものであれ、抽象的で何を表現しているのか一見わかりにくい現代アートのようなものであれ、それらはみな作家一人一人が生身の生命力を捧げながら、「この世界との関わり」をなんらかのやり方で形作っているものに他ならないと感じます。


今もまさに、みなでそうやって創意工夫しながら「生きていくこと」を肯定しなければ、世界はもっと散り散りになってしまうように感じます。


だから、

世界で起こる現実について考えることを止めずに、

同じように自分の創作も止めない。


それが私の中の、最近の強い感触です。




同じくピカソは、こんな言葉も残しています。

 「想像できることは、すべて現実なのだ。」


ということは、誰かが常に「善きもの」「明るいもの」「真に人間性を高めるもの」を想像していなければ、上っ面はいいけど中はドス黒いものや、味わいもなくスッカスカのもので世界が覆われてしまう。


その「よきことの想像」を「創造」へと変えて、世界のチャクラ(車輪)を回し続けるには、すごくたくさんの人のパワーが必要なんだと思います。

だから自分も「一抜けた」はできないってわけです。




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*描いた絵に、裏から照明をあてたらステンドグラスのようでワンダフルだった件



そんなことを考えているわたくしですが、私にとっては絵を描くこともダンスも、その他諸々も、生命力を注いでいる活動は大きな意味合いでみなヨーガです。「道」という意味でのヨーガ。


あるいは、私にとってクリエイティヴでアートな行動は、私という無知の大海原を渡りきり、彼岸へと運ぶ「船」なのです。


(うまいこと言った!!!)


すべてが探求の舞台で、別物ではないんですよね。



そんな自分自身の総合的なありようを「分別しないでそのまんま外に出す」ことに躊躇がなくなったのは、トシをとったからでしょうかwww 自分的にはインド仏教密教の「無分別の境地」だと思っています。


もちろん分けてアウトプットもしてきました。細分化しておいた方が受け手が選びやすいという事もありますし、分けた方がいい場合もあります。インド哲学の講座、ヨーガのクラス、踊りの舞台、アートな活動・・・と、個別にやることはこれまでもたくさんしてきました。


しかし最近は、自分総合運動が盛んです。どれもこれも私だ、と。なので講座もイベントも私のすきなものもりもり満載に。

今までは分けて提案していたものも、そうやって「ひっくるめて」打ち出してみると、そこに興味を持って集まってくれる人も総合的な自分を前にだして、「〜〜用の自分」という感じではなく構えずに来てくれるんですね。いろんな分野の人との出会いが自然発生していきます。当たり前といえば当たり前ですが、しかし「偏ってしまう」のもわりと当たり前なんですよね。

自分の二十代、三十代の頃を思うと、二十代はダンス関連の人が圧倒的に大多数で、そこからだんだんヨーガの人が増えていって、出産して子持ちになりダンスメインの生活でなくなると今度はヨーガやってる人ばっかりになっていって、という感じでした。が、最近は多種多様。


自分の、世界への関わり方の境界線を薄めにしてみるのは面白いですね。今はそんなところを楽しんでいます。

「自分総合」でいると、非常に、息がしやすいです。



名称未設定


サムネに使ったイラストは、すごい前に描いたものですが気にいっているものです。私が「スイカマントラ」と呼ぶ、シヴァ神のマントラから着想した絵です。その話はまた。


読んでくださりありがとうございます。

EMIRI

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