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新しいことを学ぶ楽しさ〜カラカラの土に水を与えるように〜

*こちらの記事はサイトから配信のメルマガアーカイブになります。

2021年の振り返り、その①として

12月初旬に数日風邪で体調を崩し寝込んだりしていました。
幸いスタジオレッスンなど外出する仕事がない日程だったので、おとなしく家にいれたのですが、オンラインレッスンはお休みさせていただいたりとご迷惑をおかけしました。


自分の身体的感覚としては、風邪引いて熱出して汗かいて解毒してスッキリリセット!みたいな感触だったのですが、以前だったら「風邪引いちゃって〜」で終わる話も昨今はそうもいかないご時世。気を使うし慎重になるのですが、それでも感じるのは、普段元気な人や忙しくしている人は、たまに風邪引いて強制的に休養取るのも必要だったりするなと。

とりあえず今元気で過ごしています。治る力と健康に感謝♪


話は変わりますが、少し2021年をふりかえってみようかなと思います。


■インド仏教をやる

2021年の前半は、「インド仏教の講座をじっくりやるぞ」という意気込みをまずは実行に移した年でした。原始仏教、大乗仏教、密教、そこからハタヨーガへと繋がっていく過程を見てみると、私たちが普段からヨーガと呼んでいるものの重要なエッセンスが見えてくる、それをみなさんと一緒に確かめてみたかった。まずこれがやれたのは非常に良かったなと思います。参加してくださった皆様にも感謝を伝えたいです。今後も続けていける足固めができたように感じますので、引き続き自分の勉強を進めつつ開催していこうと思います。


原始仏教というのはブッダが生きていた頃の教えと、入滅後、ブッダの唱えた教えがまだ鮮度を保って伝えられていた頃の初期仏教とも呼ばれるもので、2021年はこの原始仏教の考え方を皆様にお伝えしながらも、自分自身が非常に救われた一年でした。


というのも、世の中の動きは激動で、喜ばしいニュースばかりでもなく、人間の心の迷妄というものをまざまざと見せられるような世界の出来事は減る様子もなく、世界各地での紛争や暴力行為を伴う社会情勢、痛ましい事件の数々、そして胸の痛むニュースなども本当に多数あったと思います。そしてそれは過去形ではなく続いているものも。


そういう世界の中で、ちっぽけな自分は何ができるだろうか。どう生きるべきだろうか。そしてそれでも続いていく日々を光あるものにするには。と、終わりもない問いに対して、ブッダの教えは常に寄り添ってくれました。


仏教からのひとつの明確な提案は

「生きているのなら、ひとつでも善行を積め」

というもの。自分の力ではどうしようもない事というのが世の中にも人生にもあります。嫌でも避けられないこともあります。しかしそこで慈愛や感謝を持ち、今この瞬間に何か良いことができないだろうか、気持ちを切り替えて前に進むこと、それは自分で決めて自分で行えます。そうやって日々を積み重ねていくんだな、ということを改めて感じております。



■知の大航海へ

そんな感じでインド仏教やヨーガ哲学を地道に学んで伝えつつも、インド思想から一回外へ飛び出したくなる衝動が起こりました。

この衝動はなんと言いますか、最初はかすかなノック音だったのですが、急激に大きくなって、最後はもう「聞こえてますよ、ドア開けますよ!」という感じで玄関にダッシュ、という感じに(笑)。

衝動は「必要」に変わって行きました。

一回インドから出ないと、この先のインドはわからない、

と感じたんですよね〜。

仕事や講座はやはりそのままインド哲学で進めつつも、自分の学びはインドから出て、日本の哲学や西洋の哲学へ踏み込んで行きました。

今年の春移行はこの流れに自然と乗っていった感じです。

自分が動きだすと自然と縁が形成されるようで、詳しい人にお話を伺えたり、書籍との出会いもどんどん広がっていきました。



■最初は大変

「新しいことを学ぶ時」に起こるパターンと言いますか、まず起こるのは「最初が大変」ということ。


買ってきたばかりの新しいタオルとかって水の吸収が悪かったりしますよね。(吸収しやすく加工された製品もありますが、それは置いておいて)。少し使い込んでいくと吸い込みが良くなったりします。


もっといい例えはないかな。
あ、真夏のカラカラの土です。水分を行き渡らせるにはけっこうな量の水を与えないといけないですよね。


そんな感じで、知識的な勉強も技術の習得も、新たな分野に入ったばかりの時というのは、カラカラの土に水がある程度染み込むまで辛抱がいります。
けっこう水やりしたつもりだけどまだ全然だなあ、という時期は成果を感じにくいのでつまらなく感じる時期でもあります。人の心は「早く結果が見たい」という欲求もあるので、達成感を感じにくいと、やめたくもなってきます。


語学なんかは非常にわかりやすいと思います。
私たちは学校教育で英語を勉強しているので、大人になってもう一回学ぼうと思ったとき、もうすでに知っていることを足がかりに、語彙を足していったり、使い方に慣れていく実質的な練習に入ればいい。


ですが、全く知らない言語を一から学ぼうと思うと、まず数字の1もわからないし、主語すら初体験。基本的な会話をするための単語も全然知らないから、まさに生まれたてのバブーから始めないといけないのです。

で、このバブー期から、簡単な文章を読んだり、簡単な会話くらいならできるという初歩段階に入るためだけでも、相当な量の新しい知識と使い方の習得が必要ですよね。


なんでもそうなんですが、このバブー期から初歩期くらいまでを、成果を感じられなくても気にしないで、どんどん知識を浴びて、知らないことやできないことの多さにつまらなく感じるのを無視して、淡々と乗り切っていくのが、学びの最初の大変さを超えるコツだと思います。


なんか話が「2021年の振り返り」から離れてきてますが(笑)
まあいいか。


で、一回ちゃんと水分が行き渡った土は、別の養分も吸収されやすくなります。ある段階まで濃度が上がっていくと、今度は吸収が速くなっていき、同じ10単語覚えるのでもバブー期には一時間かかったものが15分くらいでできるようなパフォーマンスが上がって行きます。それを過ぎるとまた別のスランプはやってくるのですが、ひとまず最初期の「やってもやっても足らない」という時期の大変さは超えられます。


というわけで、スタート期の怒涛のインプットは、色々考えずに注ぎまくって駆け抜けちゃったほうがその先の学びの面白い段階には入れます。


■知の胎動

西洋哲学はまったくの初めてではないのですが、インド思想期が長かったので気持ちを新たに「バブーに戻る」作戦です。他のものを学ぶときには一回インド思想を忘れよう、自分の中で比較検討したい気持ちは一旦置いておくのがここでのマナーだ、と思い。

私はなんも知らない。
土はカラカラで、ここがスタート。

そういう気持ちで世界に別世界へgoです。

結果、インド思想との比較みたいなのも自然としちゃうところはやっぱりあるのですが(あるんじゃん!笑)、そこをちゃんと掘るのはまた後でいいと決めてじゃんじゃん入れて行きます。


それでやっぱり、思想を学ぶってことは、どとのつまりその思想の「時代」を学ぶということになります。


物事は様々な因果の末に、ある段階においての「フォルム」を持ちます。フォルムだけ見ても感じるものはありますが、どうしてそういうフォルムになったのかを見ていくと、そのフォルムが抱いている独特な時代性が見えてきます。


そうするともっとおもしろいことに、そのフォルムが持つ未来の可能性が見えてきます。過去の因果と、未来に引き継がれる可能性。そこに思いを馳せたとき、自分は、今をどう生きるべきだろうという内省を支えてくれるものになってきます。

自分に中でのこの「知の胎動」みたいなものを感じるのが、新しい事の学びの醍醐味だなあと感じますよね〜〜。快感。この快感を超えて(笑)、刺激ではなく智慧にしていくには時間が必要ですね。


 ■まんまと星の通りだった

そんなこんなでインド思想もそれ以外も、すごく勉強に勤しめた1年でした。もちろんそれは自分の「感覚的」な感想であって、この世界の知の総量を考えると私の知った事学んだ事など銀河系の中の砂つぶほどでしょう。けれど、自分的には多くのことを新たに知り、そして考えることができた一年でした。良かったと思います。

大好きな占星術家の石井ゆかりさんが、2021年の私の星座は「友だち」と「学び」の年だと書いておられたのですが、まったくその通りだね!という2021年でした。(「友だち」に関してもまさにな展開がいくつかありましたが、それはまた別で書きたいなと思います。)

もうちょっと続きますので次回にまた。


ナマステ
EMIRI

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