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祈りとセラピー




世の中にはたくさんのセラピーがあり、それぞれに良さがあり、何らかの効果を生むものもたくさんあると思います。


そういったセラピーはそれぞれに特性があり、このセッションはこのあたりに向けて行います、というような範囲があります。それぞれの対象ってやつですね。ですので、自分の状態と、セラピーの射程範囲がうまくマッチすれば、効果を発揮するものってたくさんあると思います。


医療の範疇のものあれば、サービスとして行われている施術やセッションもありますし、家族や友達と話したり、一人になったり、好きなことに没頭したり、旅行や、自然や、動物とのふれあいや、新しい環境に身を置くこともセラピーになることが多々あります。


それでも、何かしらのセラピー的試みを実施してみても、すべてがスパッと解放された気分になれたり、心理的にすっきりできる事ばかりではないのも人の心で、どうにも引きずってしまう思い、後悔とか、罪悪感とか、深い悲しみとか、手放せない怒りや恨みみたいなものが尾を引くこともあります。

あるいは特定の事項に関する感情に限定されない、漠然と心を支配するような憂いなんかもありますね。


紙を折ってしまえば、それを開いても折り目は消えないように、記憶とそこから起こる感情の痕跡は、ものによってはその人の心を長いこと複雑なものにしてしまうことがあります。

思春期が終わる頃には、すでにひとつかふたつくらい、消えがたい痛みや苦しみの痕跡を心に刻んでしまったりするんだと思います。歳を重ねていけばなおさらです。

手の届く範囲のセラピーでは一時的な効果しか出ないことがあります。ただそれはネガティヴなことではなく、一時的にでも効果があればそれはとてもいいことだと思います。ちょっと気分が変わったぞという程度でも、その効果が持続している間に心身はエネルギーをチャージすることが可能になるし、完全に解消しなくてもそういったセラピーをうまく利用するのは、鬱々とした時間を長引かせてエネルギーの総量をじわじわと減らしてしまうよりも前向きだと思います。


ただ、より包括範囲が広いあるいは深いセラピーというものが存在すると私は思っていて、それが「祈ること」のように思います。


多くの宗教において、宗教的行為として「祈り」があるのですが、これは信心を高めたり、信仰対象への信者としての態度というだけではなく、自分の心を修理している時間なのだと感じます。


仏教だと、慈悲の瞑想というものがあります。生きとしいけるものの幸福を祈ります。誰か苦しんでいる人がいるのなら、その苦しみを自分が引き受けてでも(もちろんそれはカルマの法則的にはできないのですが)、彼がそこから解放されるように祈ります。


ヨーガのような身体行法が中心の世界であっても、ヨーガを行う前に世界の平和を祈るマントラを唱える習慣があったりします。
これも、もちろん世界が平和になるのは本当に願うところなのですが、祈るという行為によってまず第一に、自分の抱えている心の損傷を修復し、自分の心の中の淀みを除去しています。

祈りは、呪術のような外界へのコマンド(命令・指示)ではなく、今感じている自己よりも大きな自己にプラグイン(接続・拡張)する行為なので、祈った内容通りに現実がそうならないことを嘆いたりはしません。




自分への、一番の深いセラピーは

「自分以外の人の幸せを心から祈ること」

だと言ったら、なかなか信じ難いでしょうか。



私が感じるのは、祈りとは「清められた謝罪」だと感じます。

人は、いつも自分の事ばかり考えてしまいます。
謝まっている時も自分のことを考えてしまうほど、無自覚の利己意識が心の底の方にあったりします。もちろん人間関係でも社会的にも、何か人に悪いことをしてしまった時に謝罪するのは大事なのですが、それはそれとして、謝まっている時ですら自分のことを思い、自意識を消せない、というのは、宇宙人的目線で言うと人間の持つ精神疾患のひとつなんだと思います。


祈りは、徹底的に自意識(エゴ)を消すことと言っていいと思います。誰にも知られない心の中で祈ることで、「自分」を消していきます。
自分以外の人の幸福を心の底から全霊で祈ることができれば「わたし」によって居場所を確保されている様々な傷や負の思いが、しがみつく支持体(わたし)を失って力を弱めていきます。他者の幸福を一心に祈ることができれば、それは本当に深いセラピーになります。



そしてもう何も修復するものもなくなった人、もうこの世で自分のこととしてなすべきことがなくなった人は聖者と呼ばれます。浄化すべき心もなく、修復すべき傷もなく、果たすべき責務もない、にも関わらず、やはり聖者たちはこの世界と生類の幸福を祈っています。そういう人がこの世界にはけっこうたくさんいるんですよね。日常的に会うこと(気づくこと)があまりなくても、けっこうたくさん。



もしも、癒えない心や、手放せない苦しみがあったら、自分以外のすべての人の幸福を心の底から全霊で祈ってみてください。最初は違和感とか反発心が起こるかもしれません。自分のことを考えたい癖が出てくると思います。
でもそれを毎日、決まった時間に実践してみて、どんな条件の日でもやり続けると必ず心は代謝していきます。そして、かすかに記憶は残ってもそれが自分を苦しめるものではなくなっていきます。


そういう「すごいこと」が、私がインドの思想から時間をかけて教えてもらった叡智です。聖者でない私は、まだまだ実践が続きます。


ナマステ
EMIRI

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