現在地を照らす光・・・ 「友達」
*この記事はサイトから配信しているメルマガのアーカイブ記事です。
メルマガを発行しておりますと、久しぶりに交流する方や、最近あまり会えていない友人から、感想や徒然の近況メールをいただけることがあります。
何か響くところを書けたことも、そしてそれによって連絡をくださることもとても嬉しいものです。
そんなメールの最近の書き出しとしては・・・
「コロナの影響でいろいろ変化していると思いますが」
とか、
「どんな風に変化されましたでしょうか、お元気ですか」
というような本題に入る前の挨拶的な、しかし同時に「本当にどうしてる??」というところを尋ねてくださっている文で始まることが多いものです。
それで、実際どう変わっただろう、といくつかの角度から考えてみたりしました。
知人、友人、仕事上で関わる人などに「実際に会う」という機会やその人数は減ったのは確かで、特に友達とお茶するとかご飯食べに行くのは減ったように思います。別件で一緒になった時に「せっかくだからお茶しようか」はあっても、それだけを敢行することがこの一年は減ったと思います。
でもよく考えると、「友達」と言ってももう学生時代のようなノリでもなければ、常に友達とつるんで出かけるというタイプではもともとぜんぜんない自分は(笑)、コロナ前もやはり友達にしょっちゅうリアルで会っていたわけでもないな、と(笑)。
そう考えると、コロナ以降の今の方が「友達と連絡を取り合う」というのはむしろ増えたように思います。
それが何気ない近況報告の交換であることもあれば、思うことをLINEやメッセンジャーなどで語ったりする場合もあります。
コロナ以降の世界について、互いの思うところを交換したい、というのはありますよね。海外に住んでいてなかなか会えなくなった友人たちとは、けっこう頻繁に対話しているなあと思います。
世界のあり方が大きく変わり、その変化の中で自分の生き方や考えをクリアにするには、「友達と話す」ということは非常に大きなことだと思います。
友人との対話が、例えるならば「人生の地図」を俯瞰して眺めるような作業になったり、まとまりきっていなかった思いを言語化しようとすることで自分の思考が整理でき、方向性を取り戻したりするものです。
きっと今、先の見えにくい不安定な要素や、めまぐるしい変化、そして夥しい情報の集中豪雨を浴びることで見えなくなってしまっている自分の本当の望みや、こうありたい自分、というようなところを「こころを許す友達との屈託のない対話」によって取り戻したい、と求めている人は潜在的にもとても多いのではないかと思います。
また、現在のつながりのある友人だけではなく、過去のいつかを一緒に過ごした昔の友達との再会、再対話を求めるような気持ちも、多くの人の中にあるのではないかなと思います。
旧友と、昔一緒に経験したことをたどることで今の自分が見えてきたり、過去の自分が癒されたり、結果「現在」を生きるパワーをもらえたりするものです。
311の震災の後などにも、そういう気持ちの高まりはあったのではないかと思います。
コロナ禍は、スタートからもう一年が経ちました。
一年前の「得体の知れない」状況の時は、まだ「みんなで一緒に体験している(一緒に混乱している)」という一体感にある種守られていたところもあったのではないかなと思います。
しかし今は、そこから時が経ち、状況の把握が進み、各分野での問題や課題がはっきりと浮き上がり、それに応じて変化を遂げることがもはや「時代」ともなり、個人にしても集団にしても「それぞれに」にアクションを起こして前に進んでいる現在です。
そんな中、自分は取り残されているんじゃないか、という(言語化されなくてもそんなような)気持ちになったり、世の中の変化にどうにかついて行っている、ないしは流れに従っていくしかない・・・という心許なさに、不安や孤独を感じる人も多いのではないかと。
そうなった時に、もちろん社会全体の受け皿の充実や、生きやすい社会をみんなで作ることも必要なんですが、個人においては「友達」との交流で心を温めたり、そこから得られる「自分の本来」を思い出すこと、つまりエネルギーの高め合い・・・友達としか生み出せない高め合いが必要なのではないかと思うのです。
家族というのが文字通り個の存在にとってのプライベートな領域で、社会人として接する職場や仕事上での人間関係がパブリックだとするなら、「友達」というのはその両方を跨いでいる橋のような存在に思います。
ホームとアウェイの中間地点を支えてくれている存在。
控え室からフィールドへ、楽屋から舞台へと出て行くための「通路」を一緒に歩いてくれるようなもの、それが友達のように思います。
不安定な社会や、同調を強いてくるような狭苦しい世間は言わずもがなですが、帰る場所である家庭や家族が必ずしも心の安定になっているわけでもない、「ホーム」が完全な休息場ではない人も多いと思います。
フィールドとホーム。
そのどちらでもないけれど、そのどちらにも属しているような「友達」。
半分社会に通じている関係であり、半分は精神的なホームみたいな関係。だからこそ、必要な場所に帰る助けにもなってくれれば、行くべき道の再確認を手伝ってくれる存在でもあります。
友人と時間を共にすることは、閉塞的で、そして「なんでもかんでも自己責任」みたいな雰囲気の強い時代を生きて行く上で、暖かい光のように思います。
もしこれを読んで、同感するお気持ちがあるようなら、
なおさら今、友達との対話が必要な時期なのかも知れませんね。
ただ単に時間が経ち、久しくなってしまった友達
コロナなので遠慮して会うことを誘ったりできなかった友達
SNSでは近況を見ているけど実際にはあまり交流していない友達
過去いろいろあって疎遠になってしまった友達
友達との距離や温度感はいろいろかと思いますが、そんな「いろいろ」をあえて飛び越えて、心から話したいと感じる友達と話す機会を持ってみるといいかも知れません。
勇気がいる相手もいるだろうと思います。
でももしかしたら、相手も求めていることなのかも知れません。
いつも安定の友達関係を築けている人と、改めて時間を作ってゆっくり語り合う時間を取るのも幸せですよね。
家族とも恋人とも違う。友達だからこそ受け渡し会える特殊なエネルギーの交換があると思います。
このメルマガを読んでくださっている全ての方と実際の「友達」なわけではないですが、無数にはびこる言葉の海の中でも、心を励ます友人からの手紙のようなものであれたらいいなと思います。(マニアックなインド思想の事とか書いちゃう回が多いですがwww)
ですので本当に、こうして読んでくださってありがとうございます。
もうひとつだけ追記させていただくと、
人間の友達ではないですが、「学ぶこと」というのは「友」と言ってもいいものです。
新しい視点、世界に心を開くこと、先に進ませてくれる励まし、重要な選択の際のアドバイス、自分の認識が間違っていた場合の修正、現在地や未来を照らす照明、そして何より大きいのが「心の休息」です。
こういった「友達」が与えてくれるような要素を持っているのが「学び」だと感じます。
ですので、自分に学びの機会を与えることは友達を増やすことに似ています。
つまり、「学ぶ」という友人がくれる非常に大きな力は、自分が生きていることを肯定する力です。
そういう意味では私にはインドっぽい友人(=知識)が年々増えまして、まぁ偏っているし強烈な意見を持つ友人たちなのだけど(笑)、非常にパワフルな陣営として私の心を支えてくれています。
というわけで、学び続けましょう♪
実際の友達も、学びや知という友も、どっちも大切ですね。
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