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桃柄


 早朝、北巽の駅前で復刻版のベビースターラーメンを食べながらおっさんが座っていた。通りすがった自転車にのった女性に、「おい文太! 一番星!」と叫んだかと思うと「いてもうたんねん」「いつでもやったんど」と迷惑な独り言。救急車が通ればそれに「なにがあったんですかー! 事件ですか事故ですかー!」と大声。なにかに酔ってるかんじもなく、そのベビースターラーメンとコーラを飲んでる。北巽には他に改札口まで飼い主を送る可愛い犬とか、ウォーキングの格好でスマートホンを延々振っている女性がいたけれど、終始笑いながら罵ってるベビースターのおっさんが強い印象だった。
 仕事が終わって銭湯の洗い場で、「いちのすけ! なにしてんねん身体洗うぞ」と大声で、顔から頭を剃刀で剃っているおっさんが居た。付近にいちのすけらしい人物はおらず、おっさんは「いちのすけ」と叫び続けている。もしかして。「いちのすけ」と一回洗い場に響くたびに、蛍光灯がまばたきみたいに一瞬なる気がする。洗い場中のおっさんも一斉に振り向く、「いちのすけ」蛍光灯、振り向き。何回かそれが繰り返されて、他のおっさんたちも一拍おくれて、なんとなく振り向く、ような時間になったとき、居ないと思っていたいちのすけ本人がついに現れた。小学生一年生くらいの男の子だった。現れたとき、ジェットバスのゴオゴオ言う音や、洗面器が床にぶつかる高い音とかがして、それは音が戻ってきたというかんじで、そこに居た皆はなんとなくでなく一様に張り詰めた気持ちを持っていたことがわかった。だって音がなくなっていた。それから他には大学時代勉強が得意でなかったから皆に追い付くために覚醒剤を使いながら勉強していたという若者とか、洗面器を所定の位置に直してくれる片手をビニール手袋で包んだおじいとかが居たけどやっぱりそのおっさんと、朝の独言おっさんを特に覚えていた。
 それから彼は自転車にのって大通り沿いを漕いだ。警察官五六人に支えられ、必死で手を挙げてタクシーを停めている若者が居た。ドラマチックなかんじはなくて、車通りのゴオゴオ言う音もした。なんというか、なんちゅうかなんというかなあ、こんなとき、朝、洗い場、いまのようなとき、なにか一方的にでもいいから心を通わせる。そういうときもある。気持ちがわかる。伝わってくる。みたいに念を送るような気持ち。○○は○○だ、みたいにこの気持ちをはっきり区別できたら嬉しい。嬉しいか? 彼はそこで一旦区切りをつけて、なにもしないで自転車を漕いで、ずっと前から通りすぎているかんじで、胸を張るようにして、通りすぎた。

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